「正義」の敵は「悪」ではなく、「別の正義」
RPAサービスを提供している社長さんのインタビューをしていて、考えさせられた。
RPAでの、業務効率化って会社や社会の側面から見れば、省人化につながるし、生産性向上につながるから「良い」側面はある。でも、個人の幸せって考えると、単純作業が得意で、好きで、それで会社に貢献してた人から見ればどうなんだろうね?
と言っていた。
僕は、IT・テクノロジー信者なので、それは世の中全体で見れば「正義」なんじゃないのか?と思う。ただ、個別最適的な「個人の幸せ」って尺度で測るとなんとも言えないものは感じる。
「正義」や「良さ」なんてものに絶対的なものはないことは理解しているが、別の側面に気づける人ではありたい。RPAという生産性向上のためのツールを提供する会社の経営者がそう話すことに新鮮さを覚えた。
「レッテル」は本当に「悪」なのか?
別の事象にまで思考は広がる。良くないこととして語られる、「レッテル」。これは分類し、あるグループに名前をつける行為と近いと思っている。
「レッテルを貼る」もしくは「ラベリングする」ことで、このグループはこういう特性があって、こういう課題が多くて、こういうことを望んでいる。ある種の抽象的グループで、意思疎通や共通認識の効率化に実は非常に役立っているのではないか。
例えば、「新入社員」「業界未経験の人」などラベリングしなかった場合、全てを1to1のコミュニケーションで行うことになり、膨大なコミュニケーションコストが発生するのかもしれない。
だからなんだ?
という話でもないのだが、改めて考えていくと、「正義」の敵は「別の正義」でしかなく、視点が変われば受け取ることは変わるし、「良い」は揺れ動くなと。
改めて思った。