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能はカウンセリングのお話しか
しばらく前から、鉢木の能が気になっている。登場人物が、自己を発見する話だと思うからだ。
シテ佐野源左衛門常世は、最初ワキの旅僧を泊めることを断る。みすぼらしい住まいだから、つまり見栄である。
妻に言われて心を改め、僧を引き留め家に招くが、ロクな食べ物がない。雑穀である粟を恥ずかしく思いながらも供すると、僧はこれを感謝しつつ食べる。貧しさは、喜びとともに受け入れられる。
雪の中、夜更けて益々寒くなるが、暖をとる薪もない。常世は、これだけは、と大事にしていた鉢木を切って薪とし、僧をもてなす。ここで、過去への未練、将来への望みが断ち切られる。
それまで、詩の話などして教養の片鱗を見せていた常世は、僧に尋ねられて素性を明かす。かつての所領は、一族に横領された。しかし、落ちぶれても侍だ。鎌倉に何かあれば、どんなにみっともなくても駆けつけて戦う。だがいまは、その矜持を示す場もない、無念だ。
ここで、シテは自分の本質に気づく。辛かったのは、かつては豊かで今は貧しくなったからではない。侍であるのに、その勤めを果たすことが出来ない、それが辛いのだ。
ここで自己を発見したことが、後シテで
「さぞ笑ふらんさりながら、所存は誰にも劣るまじ」
とか
「わるびれたる気色もなく」
という確信につながる。彼はまさに今、自分そのものなのだ。どんなにみすぼらしくても、なにも恥ずかしいことはない。
結末で所領を取り戻し、追加で鉢木の返礼まで貰うが、これはフルコースのデザートのようなもので、メインディッシュは常世が自己を回復し、それを実際の姿で示すところである。それは物質的な豊かさとは殆ど関係がない。
ところで、カウンセラーであるワキ旅僧じつは最明寺入道時頼だが、彼もまた迷いの中にある。それが次第の謡
「行方定めぬ道なれば、来し方も何処ならまし」
にまず示される。彼はドラマ水戸黄門のような単純な善人権力者ではない。為政者であることに疲れた人なのかもしれない。
そして彼もまた、常世に出会うことで自分の本来の仕事、理非をわきまえた政治をすることに立ち返るのである。
夢幻能がカウンセリング的であることはよく言われる。ワキ僧は、未練を残した亡霊であるシテの話を傾聴し、癒そうとする。
しかし、現在能もまた多分にそういう要素を含む。鉢木に問題があるとすれば、あまりにうまく出来ていて、感動的過ぎることだろう。騙されていると感じる人がいたら、それも正しいように思う。そして、そこを騙し切れるかは、結局役者の力量の問題なのかもしれない。