インドネシア大虐殺における世界史の構造が事件の当事者に与えた影響 ーー実行犯に情状酌量の余地はあるか?

はじめに


映画「アクトオブキリング」は、概要説明から明らかに1960年代-1990年代のスカルノ・スハルト大統領統治下で起きた「インドネシア大虐殺」を題材にしているとわかります。

この映画の論評のされ方としてよくあるのが

「9.30事件の実態をドキュメンタリー映画として明らかにした歴史的な意義のある作品」だったり、

「当時行われた非人道的な悪事の真実が白日の元に晒された、勧善懲悪の映画」だったり、

「主人公が当時犯した罪に映像制作を通じて向き合う、贖罪の物語」といったものです。

これだけ見れば、まーそういう映画なんだな、そうですね。で終わっても良いのでしょう。

しかし、それで講評が終われば楽なもんで、もっと深掘りしようないの?と思うのが人の性です。

ただ、この作品ってやや論じづらくて、なぜなら題材にしている事件のスケールが、我々が日常生活で体験し得ないほど大きいのです。100万人とも言われる死者数の事件なんて、日常で体感することないでしょ!

それゆえに、個々人の体験に関連付けながら論評をするのはやや困難があると感じました。

私たちが取り返しのつかない罪を犯すことって、なかなかないですよね。人間関係でしくじるとか、そういうスケールならあると思いますし、

貧困地域育ちで、生きるために暴力と薬物と女衒に手を出さねばならなかったのなら、まあ取り返しつかないかもしれません。

ただ、個人の体験と照らしあわせて感想を述べるのに、インドネシア大虐殺を材料にするのは流石にやりづらいなあと、どうしても思ってしまいました。罪とは何か?贖罪とは何か?とか考えるなら、ドストエフスキー、カミュとか読んだ方がやりやすいかと愚考します。

そのため、私個人としては、なぜ主人公が虐殺の片棒を担ぐことになったのか。そちらに関心があります。当時のインドネシアの国内事情も踏まえて、主人公の悪事がいかにやむにやまれぬ事情だったのか、考察したいと思います。

考察

主人公をジャッジする

結論として、以下のことを思いました。

・主人公の罪は重い。主義主張の違いでの殺人は正当化し得ない。たとえ自身の恥を映画という形で国際社会に露出させたとしても、贖罪にはならない。

・とはいえ当人なりに罪悪感を感じ続けていた。誰もが理解不能な極悪人であるとは、必ずしも思えない。

・主人公を取り巻く国際・国内情勢から見ると、虐殺を実行するのは理解できなくもないが、かといって別に情状酌量の余地は決して大きくない。

1 社会情勢由来の原因

まず、9.30事件前後における国内外の情勢をまとめましょう。

1オランダ植民地時代から華僑がインドネシア経済のコアを担っていた

2スカルノは共産党、軍部の双方と絶妙なコネクションを保っていた

3スカルノは国際社会においても反共・共産勢力の板挟みになっていた

4上記要因から華僑へのヘイトが蓄積していた

5スハルトが軍部を通じ(地方のギャング(プレマン)民兵組織に赤狩りを命令した?

と、ここまでが9.30事件が起きるまでの過程です。

インドネシア原住民(ブミブリ)の立場からすれば、オランダが離脱したとて、華僑が国内経済を動かし続けているのならば何も変わっていないじゃないか!という不満が募っているわけです。
その中でスカルノは右派軍部とも左派共産党とも微妙な距離を保ち、「指導される民主主義」と呼ばれる、新たな政治体制を築かんとしていました。
しかし、こうした玉虫色の政治は、国内国外ともに白い目で見られることになります。旗幟鮮明にせよ、ということですね。
結果、クーデターによって軍事政権に、共産主義者、華人は殺せ!という流れ。
軍事と繋がっていたプレマンからすれば、上から言われたからやるし、むしろ曖昧な態度をする売国奴スハルトを下ろした、英雄扱いになるわけですね。
とはいえ、金が稼げなくて必要に迫られて犯した、という面もあります。遊ぶためにあこぎな商売をした。大衆文化は、一国の発展に不可欠です。生存に必要な消費ではないが、「文化的な最低限度の生活」はかたぎの商売ではできませんでした。

2 当人の意識の問題について 別に同情はできない

かといって、当人に同情できるようなかというと、そんな気はしません。主人公は罪の意識を持ち始めたものの、なぜ殺人を犯したか?言われてやったからだ、以上の自己分析は行われていません。

ここで、劇中出てきた「プレマン」と華人への差別感情について考えてみましょう。

「プレマン」は自由人とされ、ここでいう自由とは、カントの言うところの「意志の自律」ではなく専らホッブスの言う自然状態下におけるそれの意味合いが強いです。

自然状態においては規律がない以上、個人は生存のためのあらゆる合理的な手段が認められます。
劇中によればプレマンと行政・軍事との癒着が起きており、ガバナンスが崩壊しています。
罪の意識が芽生えたのは大きな一歩です。ただ罪の意識に苛まれているなら、厳しく言えば自己満足の域を超えません。もう癒着しきってどんづまりなところがあるものの、本当に罪の意識を持っているなら何か国にとって有益な行動をやってほしいところですね。

劇中でも商店の華人店主をゆする場面があります。これはちょっと前時代的でしょう。

今もプレマンとの癒着が解消していない。政府はクーデターにプレマンや民兵を使ったはいいものの、これら武装勢力が強くなりすぎて弱みを握られている。

この辺は、意識が欠如しているなあと感じます。少なからずあったアンチ華人の感情でもって虐殺したのならば、それはヘイトクライムであり情状酌量の余地は無いかと思われます。

まあ、プレマンからすれば「国の掲げる正義を実行したまでである。殺人は無罪だ」と言うのでしょうが。

結論

陳腐ですが、現代において他者の利益を奪取することを正当化するなんぞ、容認するわけにはいきません。個人としては大虐殺の片棒を担いだわけです。

罪の意識を抱えながら生きるべきでしょう。散々女子供を殺していたのに今更、という感は否めませんが、私個人としては国が虐殺を黙認し、地元では担ぎ上げられている中で罪の意識を自覚したのは、人間の可能性を感じるところです。

ただし、混沌とした状況に陥った背景には 旧帝国主義国による収奪、華僑と宗主国の関係、複雑怪奇な要素がしこたまあります。

詳しくは述べませんでしたが、国民国家の枠組みが領域内の民族意識とうまく接続できていなかったことも考えられるでしょう。想像の共同体ですね。

以上で粗い文章になりましたが、諸々今後の課題とします。

*以下破線部間未完

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本題*以下未完

残念ながら題材にしている事件の情報が少ないこともある。個人的に色々調べたんですが、まだまとめきれてないので後日まとめます。インドネシアの経済事情は大体わかるようになったのでよかったです。

我々はインドネシアを遠いところにある発展途上国とみているきらいがあります。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/indonesia/data.html

実際そんなに治安はよくなく、成長も停滞していると言われています(中所得国の罠)
実際、インドネシアの成長は停滞していると言われますが

ネットを観ていると、「悪と善の境界がわかる」みたいな論評がありましたが、そんなにはっきりしていないと思います。題材にしているのは、未だに誰が主犯格なのかわかっていない事件です。

確かに作品上で主人公は、罪の意識を得ました。自身の悪辣さをある程度認めたと考えて良いでしょう。

しかし、もっと善悪をはっきりさせたいなら、そんな悪行に主人公らに行わせしめたものは何なのかを観察せねばならないのではないでしょうか。

共感はせずとも、背景は理解する。人口減少と人の国際移動が激しくなるこれからの未来において、日本の若者たちは自分たちと考え方もバックボーンも違う異質な人間と付き合わねばなりません。

そういう構造にしたのは何者なのか。その構造に加担しているのは何者なのか。これらを考えてこそ、初めて我々はこの事件の関係者をジャッジできるのではないでしょうか。

植民地時代 プランテーション

17世紀の帝国主義の舞台で、インドネシアはオランダの植民地の拠点となった。バタヴィア(現ジャカルタ)
ビジネスの場していたのが華僑たちである。輸出入業務に関わり、

独立後スカルノ華人ネットワークの重視 軍部との両立


玉虫色の政治

9.30事件

スハルト開発独裁

現在

ーーー

*以上未完部


中華当然、

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4817/

民主主義陣営の英雄

劇中でも語られる「パンチャシラ」ですね。 いつ建てられた?

インドネシアの経済事情

民族主義が民主主義の下

当時の勢力図

イスラム 華僑 

工業化の推進要因は華人ネットワークによるもの(三平)

プリブミ 華人三平則夫6-8

 

統合(民族的独自性を保ちながらプリブミと同じ権利を)と同化(民族的独立を捨て、プリブミの文化・社会に吸収される)で論争

スカルノ・インドネシア共産党・中国共産党と軍・(青木2006, 399)

指導される民主主義で玉虫色の政治が迷走と国内外から疑惑とされ、

スハルト期の経済事情は阿部(1999)に詳しい。スハルト開発独裁の罪として、国ぐるみでの汚職癒着縁故主義(KNN)の蔓延が挙げられる。

在留華人二世で中国語話せないープラナカン

 

スハルト 国策として華人研究を含めた民族・宗教・人種・階層関係についての自由な研究を禁止。青木(2006)では研究の規制に関する記述がなされている(同書404-5)。

とはいえ、スハルト独裁以後も経済面では華人企業家が活躍。日系企業を含めた外資が華人系企業と取引。ブミプリ系民族資本や反体制派であるイスラム勢力、学生運動家が手動で華人暴動。ジャカルタ事件

80年代以降もインドネシア大手企業の8割近くが華人所有といわれる状況

 

青木(2006)「インドネシア華僑・華人研究史 ーースハルト時代から改革の時代への転換ーー」『東南アジア研究』43巻4号、397-418頁。

阿部(1999)『インドネシア経済の発展と混迷』「千葉大学経済研究」第14巻第3号、539-559頁。

三平(2001)『第I章 総論』アジア経済研究所(三平・佐藤編(2001)「インドネシアの工業化 フルセット主義工業化の行方」アジア経済研究所所収)。

資本主義(ナショナリスト主義者)、共産

民間人

事情 資本主義と共産主義の板挟み、第三世界で連帯する道を模索

 

中所得国の罠について 『検証・アジア経済』

インドネシア経済 自由主義をやると民族自決ができない。こんなの植民地時代と同じだろう!

ごろつき

9.30 農村を焼き討ち

言われたからやった

混沌期だったから、

集団として、 言われたからやった、金がないからやった、もっと根本的なところを探りたいところです。

 

この映画が作られた2012年当時の時代的背景はどういったものだったのか?歴史的意義

監督のインタビュー

 

7人の侍と同じタイミングで課題図書になった?

何か深い意味があるのではないかなあと思い、色々考えていました。

 

七人の侍は一人一人が殺人を犯す可能性がある。殺さなければ殺される。

 

個人が群れとして動く物語、群れの中の個人を描く作品

若者として、なにを学べるか?

どちらも戦争の物語

結局は一人の人間である。人間の贖罪

最後の

 

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