そもそもなぜ移住する気になったか?
note初体験。
初めて投稿するので、どうなってるのかわからないのだけど、とにかくやってみます。
「夢を実現するため」とか
「理想の暮らしを目指して」とか
よく移住する人は言いますが、私の場合はそんな前向きな気持ちではありません。
コロナ禍がきっかけでもありません。
今、コロナの影響で移住がよく語られるようになりましたが、コロナ禍が始まる少し前に移住しました。
2018年6月に有楽町の移住フェアに行き、
2019年の夏ころ、今の土地を購入しました。
2019年10月4日に「お片付け隊」のボランティアたちが集合し、
2020年5月からここ高山村の古民家に住み始めました。
新しいコロナウィルスが中国の武漢で流行りだしたニュースは2019年12月でしたから、その頃に移住したとはいえ、コロナより私の方が先です。
ただ何となくその時々の気持ちのままに動いていたら、自然にそうなっていた、、、としか言いようがありません。しかし「ただ何となく」では話にならないので、そのあたりの自分の気持ちに向き合ってみます。
直接のきっかけはバックカントリー・スキーです。
2016年の冬からBC(バックカントリー)スキーを始めました。BCガイドの有馬新さんたちと何度も行くようになり、水上町月夜野にあるWarpの仮眠施設に泊まりました。大きなスーパーがあったり、美味しい食事処がたくさんあったり。それまで、田舎で暮らすことは全くイメージにありませんでしたが、案外、都会とも遜色なく生活できるかもしれないというイメージを持ちました。
小学生の頃から、年に1−2回家族と行くスキーは至福の時間。とても楽しみでしたが、BCで自由に山を登り降りするようになりその感覚はますます高まり、週末に山に行って癒され、都会生活に戻る生活を続けていました。
子ども達が自立する年齢に成長し、元妻と両親を見送り、仕事さえどうにかなれば、東京で生活を継続しなければならない理由もなくなりました。自由になってしまったんですね。
移住ってどうなんだろう?何となく有楽町にある「ふるさと回帰支援センター」を訪ねました。今から思えば、何となくとは言いつつ、気持ちの中に移住が大きな位置を占めていたのだと思います。
バックカントリーは移住を決めた表面的な誘因で、その背後には幼少時からの私の生活体験があったのだと思います。
私の故郷は四万温泉と愛媛県の壬生川でした。私は東京の大森に生まれ、そこで過ごしました。父親の実家は四万温泉鍾寿館、母親のは壬生川(現在の西条市)です。子どもの頃、毎年正月や夏のお盆の時期に家族と帰省して祖父母やたくさんの親戚たちと過ごした日々がとても印象に残っています。多くのいとこ達と一緒に、近くの山や滝にハイキングに行きました。スキーの初体験も小学校1−2年の頃だったか、リフトも何もない四万温泉のスキー場です。父が亡くなる前の数年間は、毎年父を鍾寿館に連れて行き、温泉に浸かっていました。
「ふるさと回帰支援センター」では全国の「ふるさと」を紹介しています。しかし、群馬県以外は移住先の選択肢にありませんでした。それはWarpベースが月夜野にあったからではなく、四万温泉が私の故郷と認識しているからだと思います。
「理想の暮らし」が私にとってどうであるかという発想はありませんでした。それまでの東京での仕事も生活もこれと言った不満はありませんでした。特に「理想」を追い求める必要もなく、現状に満足していたのだと思います。
大学の職を早期退職し、広尾に開業した段階で、すでに自分のやりたい仕事(精神科臨床・家族療法)は実現していました。老後も働ける限り、そこで小さな開業オフィスを継続することに何の問題もありませんでした。
それなのに、せっかく作った広尾のオフィスを閉じて、なぜわざわざ群馬の田舎に移住したのだろうか?
私の根底にある動機は「愛着」を求めていたのだと思います。
妻を失い、3人の子ども達を自立させ、老親を見送りました。
東京の今の生活を継続する必然性はない。
風船の紐を掴んで離さない人を失い、ふらふらと安住の地を求めていたのだと思います。
元妻を失ってからの約10年間、私は心情的に相当ふらふらしていました。その時はそう思っていませんでしたが、今から振り返るとそう思います。
「ふるさと回帰支援センター」で移住コーディネーターさん達と出会い、物件探しを始めた頃、由美はまだ私のパートナーではありませんでした。東京を離れ、移住することを伝え、そこから由美との関係が始まりました。