丸木美術館
一時期世間を騒がせた、例の『表現の不自由展』について。
当時、実際に鑑賞に訪れた方が非常に興味深いblog記事をご提供くださっていたので、改めてここで紹介させて頂こうと思う。
https://zaikabou.hatenablog.com/entry/20191017/1571309343
で、直接この記事とは関係ないことだが、この方と同様に自身もかつて丸木美術館で「原爆の図」を鑑賞したことをふと思い出したので、僕は僕なりの感性でまとめておこうと思う。
この方が訪れた日と同様、その日も冷房が効いていない部屋に扇風機が回り、開け放たれた窓の外から蝉がひっきりなしに鳴いていた。
そのロケーションの中で鑑賞する「原爆の図」は、単なる一枚の絵画から伝わる印象だけでない、より外部に拡散されていく意思のほとばしりを感じるものだった。
視覚から伝わる情感のみではなく、五感すべてに情念の波しぶきのようなものが体内に流れ込んでくるような感触。
あまり快適とは言えない空間だが、その場に10分くらい佇んでいた記憶がある。
あらゆる情熱の糸が縺れ合いそこに滞留しているかのような、重厚な空気がそこに流れていた。
「ああ、なるほどな…」と思って帰路につく。
目撃したもの、触れたものは、本来であれば息苦しいほどの惨劇と、作者の心理に鬱積するものであったはずなのに、なぜかどこか開放的な気持ちを抱いて駅まで歩いたのを覚えている。
そう、芸術に触れた時はこういう感触こそが相応しい。
茹だるような暑さの中で、蝉の声に扇風機の作動音が纏わりつく。地面に吹き溜まった情念が靄をあげる。
またあの空気に身を委ねたい気持ちになるが、あの美術館に行くのはやはり夏がいい。
来年の夏までおあずけか。