「○○に人生変えられた」という表現が嫌い
はい、たましこです。
タイトルの通り、私はこの表現がとても嫌いです。
理由はいくつかあります。
「簡単に人生を変えられるのは軽く見える」…ではないですね。多少ありますが、それが軸ではないです。どれかといったら、「○○に至る過程全てに価値があり、○○が原因ではない」です。
一期一会
ありとあらゆる出会いは大切なものです。自分に対して行為を抱く人、悪意を投げる人、様々な人が居ます。また、そういった人に出会う場も様々、自分の境遇も同一ではありません。
相手もそうですが、TPO、即ち「時間と場所、その場」はその時を逃したら二度と来ません。「私たちが初めて出会ったのは何時何分何秒地球が何回回ったとき?」の答えが複数になることはありません。
一期一会という言葉には「この場所であなたと出会った。この機会は二度と来ることはないたった一度きりのもの。なのでお互いに誠意を尽くそう」という原題があるらしいです。
しかし、私は一期一会という言葉を「出会いに優劣をつけるな」と解釈しています。その出会いがどんなものだったか、どんな価値を生み出すのか、そういったことは未来にしか分かりません。ならば、今の出会いに価値をつけるなど愚かな行為でしかありません。
「全く仲良くなれそうにない異性」と結婚することもあります。「凄く気の合う人」に裏切られることもあります。初の出会いの価値は時と共に変動します。それに最初から価値をつけなさんな。
数多の出会いの成果物
今までに出会った人間の数を覚えている人はいないと思います。無理です。そんな不特定多数の中のたった一握りの意見で人生が構成されるかと言えば、そんなことはありません。
例えば「アフリカが俺の人生を変えた」と表現する人がいますが、実際にはアフリカの自然や環境、現地の人との交流や体験といったエンカウントが複雑に発生しています。また、「アフリカに行こう」と決意するまでの経緯や現地で過ごすための知識の習得にも様々な人やモノが絡んでいます。
「教授にアフリカにいけと言われて」という表現に対しても、そもそもその教授に会うための知識を教えてくれた先生や共に励んだ友達がいます。それらの出会いを全てすっとばして「アフリカが俺の人生を変えた」だなんて。
全ての、ほんのささいな出来事も全て足した結果が今です。「どれが私にとって大切だ」 ではありません。大切だと思うものまでの過程も全て大切です。となると、人生に無駄はなくなってしまいます。どれだけ嫌で無益な物事も、あなたの人生に影響しています。
まだお前の人生終わっていない
死に際に「俺が人生変えられたものリスト」を発表するのはちょっと面白そうですね。
はい。タイトルのようなこという人はまだ死にません。人生何があるか分からないものです。二転三転します。
小学生のときに「サッカーが俺の人生を変えた!」と言いますが、大人になっても同じことをいう人は殆どいないです。「この先生が私の恩師だ」レベルならあるかもですね。恩師は一人に限りませんし。
先述の通り、物事に対する出会いの価値は常に変動します。「これが俺史上ナンバーワンだ!」と言うのは死に際まで分かりません。その場その場で「俺の人生変わった」「俺の人生変えられた!」と連呼すればするほどに価値は下がります。
人生変えられたという表現が適切なタイミングなんてありません。死ぬ間際に少し思い出すくらいです。
お前の人生の方針に定量性はない
結論ですね
「何を目指して、何をするか。」
人として生きる上で常に付きまとう命題です。そしてその答えは微細とはいえ常に変動しています。また、その答えを出す過程には無限の出会いがあり、影響されない出会いなどないです。
そんな過去を全てかなぐり捨てて、「俺の人生を変えたのはコチラ!なんとお値段20,000円!」みたいな表現されると、
「あぁ、こいつの2,30年余りの人生の出会いの価値はこんな20,000円のものにも劣るようなモノだったんだな」となってしまいます。少なくとも、私はそうなります。
居酒屋で隣のマダムの噂話にも価値はありますし、疲れた日に電車の中でただ一つ空いている椅子にも価値はあります。
複雑に絡む要素全てが混じりあって初めて今の考え方が生まれます。思考は常にアップデートされるもの、どのタイミングが一番大切だったか、どこが方向転換のきっかけだったか、それはどのタイミングでもどこでもありません。
人生は、常に、思考を変える出会いに満ち溢れています。これまでも、これからも、それは変わりません。
たましこ