バーチャルの世界に来てまで同調圧力掛けるのやめよう?
はい、たましこです。
この記事は多分一番読んで欲しい人に届かないと思います。
スクショなりで拡散して貰えると幸いです。
所謂お気持ち議論する人達に対して「お気持ちするのやめなよ、楽しくないよ」と諭す人へ向けたnoteです。
同調圧力
はい、強い言葉使います。
同調圧力(どうちょうあつりょく 英: Peer pressure)とは、地域共同体や職場などある特定のピアグループ(英: Peer group )において意思決定、合意形成を行う際に、少数意見を有する者に対して、暗黙のうちに多数意見に合わせるように誘導することを指す。
お気持ちに限らず、議論をする人たちは異なる主張を持っています。擦り合わせる必要もないし、お互いが「なるほど、相手はそう思ってるのか、確かにそれもそうかもな」と理解できれば最高だと思います。勿論、お互いに理解できないから議論は泥沼に陥りやすいです。それは別に悪いことではありません。
自分の主義主張を貫くのは大切です。
「大人なんだから相手に合わせてあげなさい」
と言いますが、むしろ大人ほど自分の主義主張を持ってないと思っています。全人類が仲良くなれる訳はない、全員が全員との間に妥協点を作れるという前提は間違っています。
しかし、実際のところどうでしょうか。社会的立場、コミュニティの維持、人間関係の融和、その他諸々の要因が重なり、自分の主義主張を貫くことができない状況はあったと思います。
この時に発生しているのが同調圧力です。
ちゃんと議論して自分の主義主張を伝えることなく、ただ周りに迷惑をかけたくない一心で周りに合わせる人の比率は多いと思います。コミュニティにおいて、そういった人の比率が増えれば増えるほど、 中心の数人の意見で意志決定されるコミュニティになります。すると、「全体にとって楽しくなるような決断」よりは「中心の数人のやりたいことをやるコミュニティ」に寄っていき、次第に人が離れ始めます。「自分がいなくたってコミュニティは回る」、これは至極当然のことですが、「自分ではこのコミュニティに対して何も出来ない」という無力感が付いてきます。切ないですね。
前者と後者は大きく異なります。もし違いが理解できないのなら、あなたはコミュニティ内の案山子になってるかも知れません。
同調圧力により発生するのは一時的な和睦と、長期的な抑圧と離反です。よくないです。
じゃあ喧嘩しろっていうのかよ
喧嘩と議論は実は似てます。喧嘩にも上手い下手があるのです。
喧嘩が強いから上手い、という訳ではありません。喧嘩が上手い人同士では実力が叶わないと分かった時点で降参します。喧嘩が下手な人は相手か自分が動かなくなるまで殴り合います。
相手を理解し、自分の中での妥協点を探す。これは議論も喧嘩も同じです。しかし、先述した通り、妥協点が存在しないケースもあります。殴り合いなら相手が動かなくなるまで殴れば終わりますが、議論の場ではそうは行きません。結局、どちらかが折れて終わることが殆どです。
常、疑問に思っていることがあります。なぜ、「我々の主張は違うんだな」という答えを持たないのでしょうか?正義の反対はまた別の正義なのは当然。しかし「理解できない正義」の存在を認知、容認するのはかなり難しいです。
さて、議論の場において、理解できない正義に出くわしたらどうなるか。答えは簡単、「多数派、声の大きい方に合わせさせる」です。結論を出す為に多数決をとることはよくあります。しかし、「多数派が正解で、少数派は間違い」と捉える人が多いのもまた事実です。それは大きな間違いです。
コミュニティの総意でないだけで、彼等の思考もまた正解の選択肢と成り得ます。大抵、少数派=間違いではありません。
議論しないということ
さて、本題が見えてきました。
議論しない選択肢、これは最悪です。少数派の発言権そのものを奪い結論を出します。正義もへったくれもありません。
議論に参加しない、これは問題ありません。今話しているのは議論に関わらずに答えを出そうとしていることについてです。
どこかの外道が似たようなこと言っていましたが、「誰かを支持するということは、誰かを支持しないということ」というのは真理だと思います。大切なのは、支持しない人の考えを理解することです。そこを無視する人はただの案山子です。また、支持されなかったからと主張をやめる人もまた案山子です。
議論に参加せずに「どうせ多数派に従っていればいいんでしょ」と考えている人は多いです。こういう人の殆どは少数派の意見を聞きもしません。「聞いたけどやっぱ多数派だわ」、このプロセスが大切です。
個々が輝ける場として
バーチャルな世界では、個性が強く出ます。見た目、性格、技術… それぞれの人がそれぞれの個性を持ち、自由にコミュニティを形成することが出来る場です。
しかし、当然相反する意見と遭遇する機会もあります。決して悪いことではありません。個性を大切にしているいい例です。お互いに主張し、落とし所を付け、時には離反し、時には受容し合える、それはとても自然なことだと思います。
しかし、最近は各々の個性を感じる機会が減りました。これはVRChat老人会と捉えられても仕方がありませんが、皆が同じ見た目をし、言葉を発しない人が増えました。いや、最近は無言勢減ってる気がします。
無言勢、特にデスクトップモードの場合は観葉植物の様なものだと昔聞いたことがあります。究極の案山子状態です。個性の発揮は難しいと思います。しかし、それは問題ではありません。「個性を発揮する気はない、周りが楽しんでるのを見ていたい」というのも立派な個性です。
邪魔なのは、「お前もこうしろ」と強要し、個性を叩く人です。ガイドラインに違反しているのならばそれは仕方なしですが、バーチャルな空間に来てまで同調圧力を強いるタイプのコミュニティ形成するの、止めませんか?
意見が合わない人もいます。当然です。合わないんだね。と理解してサヨナラすればいいだけなのに、なぜ全ての人と仲良くすることに執着するのでしょうか。諦めたら試合終了ですが、次の試合のための準備もあります。この試合が全てではありません。
ただ、そういった挫折を経験した人は少ないと思います。学校中退、定職からの退職、挫折することを恐れる人は多いです。悪いことではないですが、不必要な位恐れていませんか?もう次がない、辞めたら終わり、怖い、そういうとこやぞ。
万人の個性が輝く場として期待されていた世界に、現実の悪い風潮まで持ってくる必要はありません。
思考停止系の過ち
さて、今回の件です。元ソースをちゃんと読んだ上で、「いやVket叩くのおかしいやろ」と主張する人は、いい人だと思います。叩く相手を「Vketと運営」に括るのは主語を間違ってる気がしますが、元ソースと我々の主張をよく理解していると思います。
アウトなのは、「まーた騒いでるよいい加減にしろ」という人です。先述の通り、少数派の意見の封殺はゆくゆくのコミュニティの霧散を意味します。界隈の中の横の繋がりが大きい故、この流れはどうなるのかというのは予測も付きません。
皆が叩いてるのは記事のタイトルと記事中の1文節、たったそれだけです。それだけのことにすら気付かずに「Vketアンチ乙ww」という人は一番周りにヘイト撒き散らしていますし、話を理解していません。Vketが悪いいう主張はそんなにないはずです。よく見ていれば。
「どうせVketの記事だから叩かれてる」と思ってる人もいるようです。その「どうせ」という言葉、どうあがいてもいい意味にならないので使うのやめた方がいいですよ。ま、どうせ気にしないんだろうけども。
終わりに
お気持ち投げる側も、お気持ちを投げるリスクを理解しています。それでも聞き流せないからお気持ち垂れているのです。多分。
火遊びがしたくてギャーギャーしているのではなく、それはそこにも人がいるという狼煙です。人の思考は一つではない、故に無視してはいけないのです。少数派の意見も理解した上で、お気持ち乙と言える人になりましょう。