旅路
このnoteは、答えのない問いに対する挑戦です。
「何のために生きるのだろう」という命題に対し、人類は長い間悩まされてきました。長い歴史の中では、宗教を開発し、「このために生きている、次がある」と決めて毎日を生きてきた人もいます。
しかし、どれだけ頑張って生きたところで、そういった次元に対する実感というのはなく、結局「思い込み」による幸せにすぎません。
バカにしているわけではありません。「思い込み」と書くと聞こえが悪いですが、幸せを得る手段を会得している時点で毎日幸せに生きられる筈ですし、生きる意味とそのための行動が出来ます。
死んだあと
死後、人はどうなるのでしょうか?
「輪廻転生に基づき、また別の人としての生を得る」という人もいれば、「天国で幸せに過ごす」等々、様々な意見があると思います。これらを定義してくれるのが、宗教だと思います。
私は、死という出来事はただの終わりだと認識しています。
所謂「無宗教」に近い状態だと思います。葬式などの際にはとある宗派の教えに沿いますが、日常意識することはないです。
そんな私が死ぬ間際に何を思うか、それは死ぬときのお楽しみですね。「これから天国に行くんだ!」と希望を抱くのか、「苦しみから解放される」と安堵の笑みを浮かべるのか、今から楽しみでした。今は少し違います。
祖父の死に際に我思ふ
たまにはタイトルでかっこつけたいじゃん?
先月、祖父が帰らぬ人となりました。人生を旅と定義するのなら、帰らぬ人というよりは旅立ちましたの方が近い気がしますが。
祖父の死に際には、何も感じませんでした。強いていうなら、「こんなものか、あっけないな」位です。
特に思い入れがないから、とか、別に他人だし、だとか、そういう意味ではありません。過去に二,三度、癌になったりしており、今回も病気が発覚して入院、治療ではなく緩和ケアを選択するという流れでした。「あまりにも突然すぎる死」ではなく、「予定調和」です。
個人的には、いつか死ぬ事実に対する人としての明確な答えだと思います。とにかく、「そうなると分かっていた」という前提から、「死」に対する悲しみなどはありませんでした。
「祖父とはもう二度と会えない」のは事実です。しかし、ここ数年「自分から会いに行く」ことはありませんでした。事実、私の生活は何も変わりません。会社に行き、帰ったらゲームをし、寝る生活です。冷たい話です。
しかし、考え方には変化が生まれました。
旅とは
突然ですが、一般的な旅の目的とは何でしょうか?目的地に到達するためでしょうか?そもそも目的地がない場合もありますね。
個人的に、旅は過程を楽しむもので、目的地はその過程を経る必要性を生むための口実だと思っています。
「遠足は家に帰るまでが遠足」という言葉は有名ですね。家に帰るまで気を抜くなよ、みたいな意味だと思います。しかし、この言葉には旅の本質が入っているように感じます。
先程の言葉では、「目的地に到着するまでが遠足」ではなく、「家を出て家に帰るまでが遠足」と定義しています。
勝手な拡大解釈だと自覚していますが、「目的地までの過程、帰るまでの余韻を楽しもう」という意味が込められた言葉だと思っています。
なんでこんな話をするかというと、私は人生を旅の様なものと捉えているからです。
終わりまでの、長い旅です。
終わりのためではない
旅好きな人に「目的地に行くために旅をしているのですか?」と質問をすると、おそらくNoと返されるでしょう。また、RPGが好きな人に「ラスボスを倒すためにプレイしているのか」と問いかければ、きっと違うと思います。
「旅の目的地は大切だが、目的はそこではない。そこに至るまでの計画立て、道中の景色や異邦の食べ物、文化を感じながら過ごす時こそ旅の楽しみだ」と、誰かが言っていました。
人生を旅とした時、楽しむべきは今この時じゃないかな。と祖父の葬式の最中に考えました。「今苦労をすれば老後に楽になる」とよく言われていますが、旅はいつ終わるか分かりません。存在するかも分からない物のために努力できるか?と問われれば、迷わずNoと答えます。
旅は、過程を楽しむためにあります。過程とは、今正にこの時です。
今を生きる
我々は今を生きています。そもそも「今」という定義は難しいらしいですが、私が生きている時代は令和です。死ぬときにはまだ令和なのかな?それは今後のお楽しみですね。
今日、明日、その後の毎日も楽しく生き、死ぬ間際に「楽しかったなぁ」と思えるようになりたいし、そう思いながら終わりを迎えられるように「今」を過ごそうと思います。決して「死後」に期待するのではなく、「過程」を楽しめるように。
たましこ