大きなカメラを手に入れた
医療系の研究施設で働いている。僕は短期転勤族だ。お世話になっている今の事業所は5ヵ所目。毎日楽しく働かせてもらっている。
異動は楽しい。たまにハズレを引いて、えらい目に合うこともあるが、暮らしの拠点とリズムが変わることは単純に楽しいのだ。趣味はドライブと料理、そして写真。異動で得られる刺激はこれらを直撃する。癖にもなっているというわけだ。おかげで少なからず上達したと思っている。
僕は道具から入ることはしない。金銭的にもったいないからだ。初心者の"もがき"を楽しみたい節もある。そこに高性能は不必要だ。邪魔にさえなる。
だが、それらが道具から入らない一番の理由ではない。大切にしているのは、初心者用の道具に不満を感じること。それはブランド的な価値にではない。あくまでも道具の性能にだ。
初心者や初級者では気付かないであろう不満を道具に感じたとき、はじめて高性能な道具に触れるようにしている。そのときの喜びは半端ない。癖になる。喜びだけではない。絶望も感じる。使い倒せるか不安にも駆られるからだ。だがそれも心地よいのである。
実は車も早い段階で買い換えている。あいもかわらず5ナンバーの4人乗りなMT車だ。普通の人は絶対に選ばないような車だが後悔はしていない。ドライブをずっと趣味にしていられるのは、この車のおかげだろう。
包丁も良いものに変えた。最初はホームセンターで購入したものだったが、今は片刃の包丁だ。砥石で研ぐことも慣れたものだ。まだまだ使いこなしてはいないが、毎日の料理が楽しいのも、この包丁のおかげだと思っている。
そしてカメラも買い替えようと思っている。入門用のカメラは使い倒した。良いレンズも使った。フィルムはもっぱらリバーサルだ。まだまだ先に行けそうだが、カメラが追い付いてこない。いいタイミングだと思う。
ほしいカメラは決まっている。以前に暮らしていた場所は田舎だ。観光地でもある。景勝地ということでカメラマンも多い。そこで見かけたカメラがかっこよかったのである。
とにかく大きいカメラだった。レンズも化物のよう。木製のグリップが付いている。調べてみたらフィルムカメラだった。中判67サイズのフィルムを使うらしい。それは一般的なフィルムと比べたら面積は4倍だ。作例も凄すぎる。今の僕では到底使いこなせないだろう。
しばらく迷った挙句に手に入れた。実物は想像よりも大きかった。そして重い。露出計はついてはいるもののマニュアル操作は必須だ。撮るまでの儀式は多岐にわたる。電池は必要だが駆動音はない。そのかわりシャッター音は爆音だった。
レンズは準広角のものにした。当たり前のようにズームは出来ない。オートフォーカスも無い。設定も手動だ。とにかく最高の画を手にするための道具。万人が扱えるものではない。使い手を選ぶような代物だった。
てはじめに家の中を撮った。詰めたフィルムはモノクローム。電灯は付いているが撮るには暗い。そのためレンズの中の絞りは開放させた。それでも露出計は暗いと言っている。フィルムのISO感度は上げられない。しかたなく手ブレと戦うことにした。
こうなるとカメラの重さは味方だ。慣性がはたらき、小さなブレは消える。カメラの大きさも味方となった。目をファインダーに固定させると、左肩に木製グリップを置くことができる。脇を閉めて左手でレンズの前方を支えればがっちり固定できる。スナイパーライフルのような持ち方ができるのだ。
フィルム1本で10枚の撮影ができた。光学ファインダーが美しいので、覗いているだけで幸せになれる。撮影後も空シャッターで撮り続けた。
週末を待って外でも撮ってみた。自宅からは少し遠かったが、ドライブがてらに工場地帯を目指したのである。詰めたフィルムはリバーサル。故に前回よりも露出はシビア。1ショットも高額だ。想定以上に緊張したのである。
あきらかにカメラに負けていた。「撮らされていた」という表現が的を得ていると思う。画はすばらしかった。解像感も半端ない。フィルムの良さはアナログ的でノスタルジックな・・・、と言われがちだが、そんなことはない。67中判リバーサルなら無差別級でも戦えると思えた。
完全に今の僕にはオーバースペックだった。絶望も感じる。技術的にもそうだが、精神的にも負けていた。だがおもしろい。写真の壁は高ければ高いほどそう思えるのだ。
「僕を使いこなせるのか」。カメラが僕に語りかけてきた気がする。望むところだ。僕とそのカメラの戦いはこうして始まったのである。