舞台照明は何をすれば良いのか
舞台作品において、照明はいったい何をすれば良いのでしょうか。この疑問に対して、特に演劇、とりわけ高校演劇やアマチュア演劇のような場で広く信じられている説は「舞台照明はそのシーンの《場所》や《季節》や《天候》や《時刻》を光で説明する」というものです。僕はこの説は必ずしも正しくないと考えていますが、なぜ、この説がこれほど広く信じられているのか、という点には興味があります。
まず、最初の疑問文「舞台作品において、照明は何をすれば良いか」についてですが、すべての舞台作品に共通する「照明はこれをすれば良い」ということって、そもそもあるんでしょうか、それとも、作品によって「照明が何をすれば良いか」はまちまちなんでしょうか。どちらだと思いますか?
A. どんな舞台作品においても照明のやる(べき)ことは決まっている
B. 舞台作品において照明が何をすべきかは、作品それぞれでまったく異なる
これについては、どんなケースであれ、(みなさん同意していただけると思いますが)AまたはBのどちらか片方だけと言い切ることはできません。作品の中身がどうであれ、照明でやるべきこととして最低限のことは決まっている(A)ということは確かに言えますが、それだけをクリアすれば良いというわけではなく、照明に何を求められるかは作品によってそれぞれ違う面がある(B)ということも当然言えます。つまり、すべての作品は、AとB両方の要素を含むけど、場合によってその比率が違う、ということですね。
たとえば典型的なクラシックのコンサートの場合、その照明は、ナマで舞台全体をフラットに明るく見せることが求められます。それは、どの照明家がやっても結果的にほとんど同じ方法になると思います。つまりやるべきことがだいたい決まっている(A)ということですね。いっぽう、たとえば小劇場の演劇で、若い劇団が自分たちの新作を初演するみたいな場合、照明が何をすれば良いのかは演出家やプロデューサーと打ち合わせするまでは全くと言っていいほどわかりません(B)。
大雑把な傾向としては、古典的な作品は照明に求められるものがだいたい定まっているのでAの考え方に寄り、現代的な作品は照明に何を求めるかが作品のコンセプト等によって大きく異なるのでBの考え方に寄る、ということは言えそうです。
さて、この問題をさらにもう一段深く掘り下げて考えてみましょう。上記のAにしろBにしろ、「照明がやるべきこと」が何かしらあって、それをやるのが僕ら照明家の仕事なわけですが、その「照明がやるべきこと」って、「誰のため」だと思いますか? その「やるべきこと」は、いったい誰のためで、その「やるべきだ」って判断する(した)のは誰なんでしょうか。
たとえば仮に、ある照明家が何かの舞台の照明を任されたとして、その現場には誰も「照明で何をすべきか」を言ってくれる人がいなかったとします。そうすると、「照明で何をするべきか」は照明家が自分で考えなければなりません。そういう時、照明家は、何を基準にして、誰を満足させようと考えるでしょうか。
これはあまり簡単に結論を断定してはいけないと思いますが、僕の考えとしてはやはり、以前の記事「照明デザインが目指すもの」でもちょっと書いたように、照明家は基本的に「観客の共感」を得ることを目指して、照明がなすべきことを探るんだと思います。様々なケースに共通する照明のやるべきこと(A)であれ、作品によって異なるその時々の照明のやるべきこと(B)であれ、どちらにしても、何をすれば観客の共感を得られるか、ということを基準に、照明は作られるんだと思うんですね。
では、どういった事柄なら観客の共感を得やすいか。その答えが、(特に演劇においては)そのシーンの《場所》や《季節》や《天候》や《時刻》といった「設定の説明」なんだと思うんです。舞台作品が本来表現しようとしているのは、登場人物の個人的な心情とか、その背景にある社会事情とか、あるいは演じているパフォーマーの身体的な魅力とか、そういった複雑な人間の営みなんでしょうが、そういった本質的部分の受け取り方は、観客によってそれぞれ一人ひとり異なっているものです。しかし、そのシーンの《場所》《季節》《天候》《時刻》といった「設定」は、すべての観客が共有しやすいし、そこはむしろ共有されたほうが、肝心の表現の中身を受け取りやすくなる(かもしれない)。だから、照明のやるべきこととして、まずそういった、「設定を説明する」ということが最初に選ばれる、というのが、最近の僕の説です。
照明家が照明を作る動機として、観客の共感を得たいという心理があることは、ほぼ間違いないと思います。その手段として、シーンの《場所》《季節》《天候》《時刻》といった「設定」は、作品の中身にそれほど深く踏み込まずとも理解できるし、光でそれを作る方法も比較的わかりやすい(現実の光を模倣すればよいから)。また、そうした「設定」は、観客によって受け取り方がそうそうズレることもないし、仮にズレたとしても作品の本質の理解を致命的に邪魔することにはならない。だから、照明がまずやるべきこととして、よく選ばれるんだと思います。
さて、照明のやるべきこととして、「シーンの《場所》《季節》《天候》《時刻》といった設定を説明する」ということがあるとして、その作品の関係者が全員、「照明はそれをしていればよい」と思っているなら、話はこれで終わりです。プロダクションのメンバー、特に演出家が、「照明はシーンの設定を説明してくれればよい」と考えており、照明家もそれを「やりたい」と思っており、その結果を観客が満足して受け入れるなら、まったく何も問題ありません。
しかし、そうではないケースもあります。たとえば演出家が、「照明が単にシーンの設定を説明するのではなく、登場人物の心情を光で示唆するようなことができないか」と考えている、とか。あるいは照明家が「シーンの設定を説明することに何の意味があるのか」と疑問を持っている、とか。
僕自身、シーンの設定を説明するような照明を作ることには、今はまったく喜びを感じません。オレンジの夕日だろうが青色の月光だろうが、どうせそれは照明機材の光でしかないし、本物の太陽光や月光には似ても似つかない。そんな記号的な光を作っても、まず自分自身がちっとも面白くないし、やりがいも感じません。また、仮に自分が観客としてそれを見たとしても、まったく「共感」するところはないと思います。
演出家も、様々な人がいますが、僕がよくご一緒させてもらっている現代演劇の演出家たちは、シーンの設定を説明するだけの照明では満足せず、照明にも何らかの形で作品表現の本質に参加することが求められるケースが多いです。そのように照明でやるべきことが複雑化してくると、照明家一人だけで「何をするべきか」を考え切るのは難しくなってきます。
その結果として、照明家と演出家が共同して照明を作る、という方向に進むわけです。その過程については以前の記事「主観から始まる照明」でも書きました。
では、照明がシーンの設定の説明にとどまらず、たとえば何らかの形で作品表現の本質に参加することを求められる場合、照明家はいったい何をすれば良いのでしょうか。僕なりの答えを先に言ってしまうと、一般論として「何をすれば良いか」は、僕にも言えません。ですが、「僕個人はそういう時に何をしているか」ということなら、説明できるように思います。
次回はこのことについて書きたいと思います。
【予告編】
照明で、僕は何をしているか、について述べます。(予定)
この文章が面白かったという方、あるいは次回が楽しみという方、ぜひ「スキ」をお願いします。
では、また。