視覚・写実・審美・表現
「舞台照明の効果にはどのような要素があるか」といった疑問をネット上で検索すると、次のような答えを得ることが出来ると思う。
このような記述を見た時に、私がどうしても「もやもや」してしまうのは、舞台照明の要素というタイトルで記述されることの多い、この類の文章のほとんどが、その出典の記載を欠いているという点である。「舞台照明は視覚・写実・審美・表現の4要素で構成される」というのは、「水の分子は一つの酸素原子と二つの水素原子でできている」といった科学的事実とは異なり、あくまで特定個人が一つの主張として述べている命題にすぎない。しかし、上記のような、いわゆる「4要素」を述べている記述のほとんどは、何のエビデンスも出典も示さず、それが科学的に揺るがない事実であるかのように、「舞台照明はこれら4つの要素から成る」と断定している。
実は、舞台照明の世界における言論では、このような剽窃まがいの記述は珍しくなく、しかもそれは最近に始まった話ではない、と私は考えている。ネット上で見つけられる上記のいわゆる「4要素」の参照元は、(これも推測の域を出ないが)大庭三郎「舞台照明」(オーム社、1976)がその大元であろうと考えられる。「舞台照明」のP.13「3.舞台照明の要素」という章の冒頭で、大庭は、
と述べている。
また、これとよく似た大庭による記述は、1987年の「照明学会誌」の中にも見つけることができる。
しかし、この「4つの要素」が、大庭によるオリジナルのアイデアではないであろうことは、史料からほぼ明白である。大庭の師匠にあたる遠山静雄の著書「舞台照明学」の上巻の中に、
という記述を見つけることができる。さらに、この文中で述べられている通り、遠山によるこの提唱は1933年の電気学会で行われており、電気学会雑誌のバックナンバーをあたると、遠山の「舞台照明」という論述を見つけることができて、そこには確かに、
という記述がある。大庭三郎氏は1933年の時点ではまだ21歳なので、遠山(当時38歳)と共同でこの「4つの目標」を考案したというのはさすがに考えにくいと言わざるを得ない。つまり、大庭の言う「4つの要素」は、遠山が提唱した「4つの目標」を、のちに引用したものと考えるのが自然である。
ここで一つ注意しておきたいのは、遠山が視覚・写実・審美・表現の4つの熟語について、当初は照明の「目標」と呼んでいて、のちに「目的」「作用」「効用」「機能」と様々な呼び方をしながら、一度も「要素」とは言っていないという点である。遠山の言い方に沿うなら、これらは4つの「作用」であって、これをあっさりと4つの「要素」と言い換えて良いものなのか、やや疑問が残る。これについては後述する。
いずれにしても、大庭が述べる「4要素」は、遠山が1933年の電気学会で提唱したこの4つの言葉を元にしたであろうことは、まず疑いようがない。しかし、上述した大庭の著書「舞台照明」の記述の中には、遠山の名前は明確に示されてはおらず、巻末の参考文献に
の記述があるのみである。
大庭が、なぜ遠山の先行文献を明示的に示さずに、これら「4つの作用」を「4つの要素」と言い換えて主張したのか、そのあたりの細かい事情はわからない。しかし、遠山が「4つの作用」を元々どのような意図で書いたかは、原文を注意深く読み込むと推測することができる。ここではその推論過程の詳細は割愛するが、遠山は、「4つの作用」を決して普遍的真理と考えていたわけではなく、分析手段の一つとして自分が提唱するものとして述べていることがわかるのである。
いっぽう大庭は、視覚・写実・審美・表現について4つの「要素」という言い方をしているところから見て、これらを「舞台照明を構成する普遍的な要素」であると理解していた節がある。そう考えていたとすれば、出典を示そうとしなかったのもさほど不自然ではないかもしれない。普遍的な真理を記述するのであれば出典は重要ではないからである。
しかし、遠山が「4つの作用」を提唱した意図は、「普遍的な真理」とは異なっていた。遠山の意図に沿って言うなら、舞台照明は作品ごとに様々な効果を意図して自由に作られるのであって、それら様々ある照明の働きを分析するにあたって、視覚・写実・審美・表現の4つに分類して解釈するのがわかりやすい、ということに過ぎないのである。さらに遠山は、これら4つに加えて「特殊用法」として「背景投影法」についても述べている。ということは、遠山自身は視覚・写実・審美・表現の4つについて、さほど強いこだわりを持っていたわけではないということが推測されるのである。
それに対して、大庭の提唱する「舞台照明の4つの要素」という解釈に沿うなら、舞台照明はそもそもこれらの4要素から成り立っているのであって、すべての舞台照明はこれら4つの要素を作り出すことによって生み出される、と理解される。
視覚・写実・審美・表現を、照明のもたらす「作用」と考える(遠山)か、照明を構成する「要素」と考える(大庭)かは、大きな違いであるように私には思える。人口に膾炙する「舞台照明の4要素」は、元々は遠山静雄が「4つの作用」として提示した4つの熟語をそのまま引きながら、それに大庭三郎が独自の解釈を与えて提示したものであり、遠山が元々提言していた概念からは、若干のずれが生じている、と私は理解している。
私自身の意見としては、照明デザインは、本来まったく自由なものであり、何をしなければならないとか、どの範囲までが舞台照明であるとかないとか、そのように定義づけられるものではないと思っている。その意味で、私は「4要素」という考え方には与しない。デザインは自由なものであり、そのとらえかたの一つとして、遠山は「4つの作用に分解するという分析方法」を提案したに過ぎないのであって、私もその遠山の提案を、あくまで遠山個人による仮説として評価したい。いっぽう、「舞台照明は4つの要素から成る」とする説は、視覚・写実・審美・表現が、まるで照明を構成するすべてであるかのようにミスリードする可能性があり、私としてはにわかには首肯しがたい。もちろん、間違いだとまで言うつもりはないが、もう少し流動的に解釈できる余地を残すべきだと、個人的には考えている。
遠山自身も、大庭の主張をその目で見たに違いないが、それに対して、はたしてどのように感じたのだろうか。当時の遠山自身の気持ちを知りたいところではあるが、それを知ることができる資料には、まだ出会えていない。