エピソード1:照明家の主観の形成
これまでの3回(ないし4回)の話の流れをあらためて見直してみると、最初は照明についての世間話的な話題から始まって、だんだんと照明家の考え方そのものに踏み込んで行き、そして回を重ねるごとにトピックがより根元のほうに、だんだんと下がってきていることにお気づきかもしれません。ここまでのタイトルを見てもそれは明らかです。
第0回「舞台照明の《やりすぎ》問題」
第1回「舞台照明の評価基準」
第2回「照明デザインが目指すもの」
第3回「主観から始まる照明」
第4回「照明家の主観の形成」(今回)
これ、最初はぜんぜん意図してなかったんですが、実は、第4回から第0回に向かって逆順にたどったほうが、話の順序としては自然な流れですよね。
「主観の形成」→「主観から始まる」→「デザインが目指すもの」→「評価基準」→「やり過ぎ問題」
つまり、最初の第0回、第1回ぐらいは比較的身近で具体的な話をする所から始まったのに、2回、3回と進むにつれ、だんだんと原理的・根源的な方向に、話がさかのぼっているわけです。そして今回、ついに照明家の主観が生まれるところ、つまり照明家が誕生するところですね、いわば最も根元とも言える話題まで到達しました。つまり内容的には今回が「エピソード1」だと言えます。すなわち、話の筋道としては今回の内容が一番最初に来るべき話題だと言って良いと思います。というわけで、「エピソード1」が第4回ということになってしまいました(そういう映画ありましたね)。まあ流れでこういう順序になっちゃったんで、どうかご容赦ください。
さて、本題です。
今回のお題は「照明家の主観の形成」ですが、照明家の主観がどのようにして出来るかを考えてみると、実際の順番としては、もともと主観を持っている1人の人間が、何かのきっかけで照明家としての自分を自覚するようになる、ということですよね。つまり照明家の主観の形成とは、実際には「一人の人の主観の中で、照明が大きな位置を占めるようになる」みたいな意味になります。ということで、まずは、一人の人が照明家になるということ、その始まりを考えてみたいと思います。
照明家になった人は、それぞれ色々な経緯があったと思います。極端な例としては、両親が照明家で、物心ついた時には家庭にも身の周りにも照明が日常的にあり、その中で育つうちに自分も自然と照明をやるようになった、みたいな「照明一家に育った」人も、ひょっとすると中にはいるかも知れません。あるいは僕のように、舞台と何のかかわりもないまま中高生の青春を過ごし、のちにたまたま照明をやる組織や集団(僕の場合は大学のサークル)に入り、そこで過ごすうちにだんだんと照明に興味を持ったというケースもあるでしょう。他にも、照明をやるようになった経緯は、照明家一人ひとりみんな違うと思います。ですが、どんな経緯があるにせよ、おそらく共通しているのは、「誰かの、何らかの舞台作品の照明を見た」という経験が、そこにきっと強く関係しているということです。誰かが作った舞台照明を見て、何らかの影響を受けたからこそ、自分も照明をやろうと考えるようになった。これは、すべての照明家にあてはまると言って良いと思います。「誰かが作った舞台照明を見て影響を受ける」という経験をまったく抜きに、純粋に自発的に舞台照明家なった人は、ほとんど(たぶん一人も)いないでしょう。
照明家は、過去に「誰か(他人)が作った照明を見て影響を受けた」ことが必ずある、これは、照明家という人種を理解する上で重要なことです。「影響を受けた」というその時、そこで何が起きていたかというと、その未来の照明家は、誰かが作ったその舞台照明に、おそらく「共感」していたのだろうということが言えます。照明家は、今でこそ自分が照明家ですが、その過去の生涯の中のどこかで、他人である照明家の作った舞台照明に「共感」した経験を、必ず持っているのです。これは、見落としがちな重要なポイントです。
照明家は過去に、何かの作品の照明に共感した経験を必ず持っていますが、いっぽう、照明家でない人は必ずしも照明に対して共感を持った経験は、ない(かもしれない)ということが言えます。これを大げさに言うなら、照明家と照明家以外の人では、価値観の根本のところに差があるということです。この違いを理解することは、たとえば演出家が照明家という人種とコミュニケーションする上でとても有用だと思いますし、照明家の側も、この違いを自覚することで、照明家以外の人とのコミュニケーションがよりスムーズに行えると、僕は思います。
そして、照明家は、最初の時期に誰かの照明に共感しただけにとどまらず、その後もずっと他人の作る照明を見続けて成長します。もちろん、自分で照明デザインを作ることも時折あるでしょうが、自分よりも他人の作った照明を見る機会が多いほうが普通です。しかもその場合、大抵はその作る現場にスタッフの一人として参加しながら見ています。そうやって、色んな人の照明作りに参加し、様々な照明を見て、色々な知識や技法を学んだ結果として、自分も「照明家」の一人である、と自覚するようになるわけです。自分が照明家であると自覚した時の、その頭の中は、色々な人の照明作りに参加しながら蓄えた、膨大な照明の知識と技法で満たされています。それらはすべて、自分以外の誰かが作った照明から得たものです。それらの、いわば「他人の知識や技法」が、生まれたての照明家の主観を支配しているのです。
つまり、照明家がそのキャリアをスタートさせる時点では、自身の中には他人の作った照明しかない、ということなのです。これはよく考えれば当然のことです。自分でまともに照明を作れるようになるためには、まず他人の照明から様々な知識や技法を学ばなければ無理です。ですから、誰でも最初は他人の照明の知識だけを持った状態からスタートします。自分の照明を作る機会があるとしても、最初は他人の照明をベースに作るしかない、という状態なのです。しかし、他人の照明をベースに数多くの照明を自分の力で作っていく中で、他人から得たものだったはずの知識や技法が、次第に自分のものとして獲得されていきます。
「他人から得たものが、それらを使う中で自分のものとして獲得される」という言い方が、少しわかりにくいかも知れませんね。これについては、たとえば料理人の調理技術や音楽家の演奏技術の習得過程などと少し似ているところがある、と考えると、理解の助けになるかも知れません。調理も楽器演奏も、最初は他人(先生)の技法を見てまねをすることから始まります。他人の技法をより上手にまねるということが最初の時期の目標であり、それがうまく出来るようになるとともに、次第に自分なりの技法や表現法が開発され、それがその人のオリジナリティとなっていきます。照明を習得する過程もそれと少し似ています。最初は他人の照明のまねをする、しかも上手にまねをするということが最初の時期の目標です。それを重ねるうちに、自分なりの照明技法、自分なりの照明表現を生み出せるようになるわけです。これについては次回もう少し詳しく考えます。
ここまでの話の中での大事なことを抜き出して箇条書きにし、今回は終わります。
・照明家は誰でも、他者の作った照明に共感を持った経験があり、その後も他者の作る照明を見続け、その創作に参加し続けて成長する
・照明家は、そのキャリアがスタートする時点では、他人の作った照明から得た知識や技法しか持っていない
・当初他人から得た知識や技法しか持たない照明家は、自分の照明を作る機会にも他人のまねをする。それを繰り返し行うと自分なりの技法や表現法が得られていく(詳しくは次回)
【予告編】
「他人のまねを繰り返す中で、それが自分のものとして獲得される」ということが起こるメカニズムについて考えます(予定)
この文章が面白かったという方、あるいは次回が楽しみという方、ぜひ「スキ」をお願いします。
では、また。