エピソード2:照明家の主観の成立

前回のエピソード1の最後に、

・照明家は最初は他人の照明の知識だけを持った状態からスタートする
・他人の照明のまねを繰り返す中で、他人から得たはずの知識や技法が、次第に自分のものとして獲得されていく

ということを説明しました。

前回のエピソード:

今回は「まね(=模倣)を重ねて自分のものにする」とはどういう事か、考えてみたいと思います。

その前にまず大前提の確認ですが、照明デザインは「身体技術」の一つです。照明デザインを、身体と無関係なものと思い込んでしまっている人もいるようですが、それは間違いです。身体じゃない技術として代表的なのは、アプリの使い方、たとえば表計算Excelの使い方とか、スマホによるSNSのやり方とかですね、そういうのは身体技術ではないので、純粋に頭で「知識」を学べば、学んだ範囲は100パーセント使えるようになります。しかし照明デザインはそっちではありません。照明デザインは身体技術であり、頭で理解しただけで100パーセント出来るというものではなく、他の身体技術(楽器演奏、スポーツ、料理、工芸など)と同様、練習をしないとうまく出来るようにはなりません。これ、わかってない人が意外と多いので、注意が必要です。

アプリの使い方(身体技術ではない)の場合、手順を教わったら、それを箇条書きとかで書き留めておいて、もしそれをいったん忘れてしまっても、あとでその書いたのを見ながらなぞって、その通りにやれば、100パーセント再現できますよね。

【アプリの使い方】(身体技術ではない例)

・[ファイル]メニューから[オプション]を選ぶ
・[詳細設定]ボタンをクリックする
・[自動バックアップ]のチェックを外し、OKをクリックする
・・・・・・

しかし、身体技術の習得は書き留めることが出来ないことも多く含まれています。だからこそ、全ての身体技術の習得の基本は、まず、先輩や先生をまね(模倣)することなのです。最初は、理屈は考えず「同じようにやってみる」「言われた通りにやってみる」ということから始めます。もちろん重要な点を文字に書き出すことは出来ますが、書いたことだけをその通りになぞっても、やりたいことを100パーセントできるとは限りません。

【運動】(身体技術の例)

・足を肩幅に開く
・腕を水平に上げる
・上半身を左右にリズミカルに振る
・・・・・・
【料理】(身体技術の例)

・しょうゆ大さじ1、酒大さじ2を加える
・火が通るまで6、7分煮る
・ネギを加え軽く混ぜる
・・・・・・

この違い、わかりますよね。
身体技術の場合、言葉で書き出せるのはあくまで「チェックポイント」です。それらは「出来るようになるためのヒント」に過ぎないのであって、それらを全てクリアしたからといって、必ずそれを出来るようになるわけではありません。チェックポイントをクリアした上で、さらに、そこには書かれていない何かを、現実に目の前で起こそうとしている、ということが重要です。

照明も、最初は模倣です。デザイン的なことも技術的なことも、とにかく最初は先輩や先生の模倣をすることから入ります。模倣を始めたばかりの時点では、「なぜそうやるのか」は理解できません。理解できず、ただ模倣をしているだけです。「なぜそうやるのか」については考えなくても結果は出せるし、考えてる暇がもったいない。最初はそれでかまいません。いつも先輩たちが「しょうゆ大さじ1」でやってるから、自分もその通りにしょうゆは大さじ1で作る。それでうまく出来るのだから、それ以外のことは考える必要はありません。

しかしそれだと、「決められた通りにやっている」だけです。照明を学び始めたばかりの人は、先輩や先生のやってることを「決められたこと」だと受け止めます。その通りにやればうまく出来るのだから、それを死守するように頑張る。それを頑張れば頑張るほど、それが「決まっていること」だという確信が深まります。

でも本当は、「決まってること」なんて何もないんです。自由にやってかまわないんです。たとえば「しょうゆ大さじ1」が、本当に一番うまいのか。大さじ1より、一滴でも多いと、あるいは少ないと、ダメなのか。そういう疑いは持って良い。先輩はこう言ってるけど、本当にそれが一番良い方法なのか。そういう疑いを持つことは、ごく自然なことです。

そのように生じた「疑い」を確かめるには、実際にやってみるしかありません。大さじ1に、一滴プラス(あるいはマイナス)してみるとか。意図的にやらずとも、失敗して一滴多く(少なく)なっちゃった、とかでも良いですね。そういうふうに「決まっていること」からちょっとズレた状態が、どういう結果を生むのか。それを全力で観察すると、自分の「疑い」に対する答えが得られます。「実は大さじ1プラス一滴」のほうが良いとか。あるいは「やはり大さじ1ピッタリじゃないとダメ」とか。仮に後者の結論の場合、今後もしょうゆは大さじ1ピッタリで作り続けることになりますが、それはもはや、模倣ではありません。それまでまねしてきたのと結果的に同じことをしていますが、「やはり大さじ1ピッタリじゃないとダメ」のように、一度いだいた疑問が解けた状態に至っているのであれば、それはもはや、模倣ではなく「自分で選んでやっている」ことであり、まねをしてるだけの状態とはレベルが一段違っている、ということがおわかりでしょう。

これが「模倣を重ねて自分のものにする」ということの意味です。先輩や先生の模倣を数多く繰り返し、時にはそれに疑いを持ち、あるいは模倣に失敗しながら、それを繰り返すことによって、最初は模倣だったことが、(内容は同じままだとしても)自分で選んでやっていることへと次第に変化します。そしてついに、すべてのお手本に対して一度は疑いを持ち、その疑いが解けた状態になります。そうなった時点でやっていることは、部分的にお手本から少しズレていたり、あるいはある部分では全くお手本の通りのままだったりするでしょうが、いずれもすべて、自分で選んでやっていることですから、確実にそれは、模倣ではなく、自分の力量と言って良いものです。

ここまで来ると、メンタル的にもだいぶ自信が出てきます。自分はもう、他人の模倣ではない、「自分自身の照明」というものを持っているんだと、そういうふうに自覚するようになります。そして、自分の持っている照明の知識や技術に、揺るぎない確信を持つようになります。一度は疑問を持ち、のちにその疑問が解けているわけですから、その確信は深いものとなります。

このような経過を経て、照明家の主観は、ついに独立し、成立したものとなります。

しかし、ここで考えてみてください。その「自分自身の照明」の材料となっているものは、何でしょうか。もう一度上記の過程を振り返ってみてください。「自分の照明」といいつつ、結局その素材は、先輩や先生がやっていたことの模倣と、それに対する疑いと、模倣からのちょっとしたズレ、それだけであることがわかります。つまり、まとめてしまえば「模倣+疑い+ズレ」だけです。たったそれだけで出来ているのに、それに「揺るぎない確信」を持ってしまっている。この「確信」は、時に硬い殻のように照明家の心を閉ざし、それがコミュニケーションの邪魔となることもあります。

そんな照明家が、舞台作品に参加するわけです。

ここまでの内容を箇条書きにまとめます。

・照明デザインは身体技術である
・多くの身体技術同様、照明の習得は模倣から
・模倣に疑いを持ち、そこからのズレを観察することで模倣だったものが自分の力量として獲得される
・照明家は、自分の力量として獲得した知識や技術に、揺るぎない確信を持っている
・その確信が、時にコミュニケーションの邪魔になることもある

では、そんな主観を持っている照明家は、いったい何を目指して照明を作るろうとするのでしょうか。次回は、第2回「照明デザインが目指すもの」 で扱ったテーマに、もう一度戻ります。

【予告編】
「自分の照明」に自信を持ち得た照明家は、作品に参加した時、まず何を目指して照明を作ろうとするのでしょうか。その心理を考えます。(予定)

この文章が面白かったという方、あるいは次回が楽しみという方、ぜひ「スキ」をお願いします。

では、また。


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