見出し画像

【読書ノート】往復書簡 限界から始まる

母娘ほどの年齢が離れた社会学者の女性ふたりが、「愛とセックス」や「家族」そして「フェミニズム」にまで及んで静かな文通を繰り広げる。そんな日常の話題についてのおふたりの私的な会話を文通を通して覗けるなんて、ワクワクしませんか?

幻冬舎の課題図書、「往復書簡 限界から始まる」を読みました。心から尊敬する上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」は以前ご紹介しました。

今回は鈴木涼美さんという方との往復書簡、いわゆる文通を1年間にわたって行った記録です。文通なんて、なんて懐かしくて、逆に新鮮な響き。

私は鈴木涼美さんを存じ上げなかったのですが、「東大卒」「元AV女優」「元日経新聞記者」と異色のキャリアを持つ作家さんです。上野さん同様、優秀な経歴の社会学者でいらっしゃる鈴木さんの「元AV女優」の経歴・・・どうして〜も気になっちゃいますよね?よって、どうして〜も先入観に邪魔されつつ読み始めたのですが、、、読み手である私とおふたりとの距離が縮まった気持ちにさせてくれる温かいやり取りである一方で、優秀なおふたりのこれまでの生き様やそこから紡がれたお考えが、次から次へとあらわになります。ついついハイライトを意味ないレベルの量入れてしまいましたよ。

女性学という学問を開拓したフェミニストの上野さんと、年齢が母娘ほど離れた異色の経歴を持つ鈴木さんのやりとり、バチバチと火花が飛び散るのかしら?なんて思いながらページをめくり続けました。

ご自分でAV女優という道を選び、そこから多くの経験をしたが、被害者として声をあげることに対して抵抗がある。そんな鈴木さんのうちに潜む弱さを上野さんは探り当てます。

「被害者」と呼ばれたくない、「弱者」であることがガマンできない、という気持ちをウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪) と呼びます。エリート女性がしばしば陥りがちなメンタリティです。

ウィークネス・フォビアという言葉を初めて知りました。確かに男性社会で強く生きていかなければいけない私たち女性の中には、弱みを見せるのが苦手な人もいます。または弱そうな部分をチラ見させつつ、見せた途端に自分が泡になって蒸発しちゃうんじゃないかってくらいのマジやばい弱い部分は絶対隠す、という人も多いかな、と思います。・・・私のことですが。

自分の書く文章が、自分以外の女性を傷つけるために誰かに利用されることに対する懸念があるという鈴木さんに対して、上野さんは「何よりも傷ついているのは自分自身じゃないの?」と言い当てます。自分の傷に向き合い、痛いものは痛いということによって、ひとの尊厳は始まるのだから、と。自分に正直であること、自分の経験や感覚を信じ尊重できない人間が、他人の経験や感覚を信じ尊重できるわけがないのだから、と。鈴木さんの手紙を読んで、ここまで分かってしまう上野さんの人生経験と分析力に感銘を覚えるのと同時に、鈴木さんがいかに真摯に自分自身を削り取って自らの思いを文章にしているのか、そのプロフェッショナルな姿勢も垣間見れた瞬間でした。

「性と愛を一致させなければならぬ」というロマンティック・ラブ・イデオロギーは女性だけに課され、でも時が経つにつれて性と愛は別のものだから、別々に扱うほうがよいと、あるべきところへさしもどされるようになりました。そこまではよかったのですが、その変化がもたらした効果は何だったのか?というやりとりが出てきます。

このロマンティック・ラブ・イデオロギーは、まさに混沌の時期にあると思います。自由な性という概念だけが独り歩きし、女性が男性が望むままに捧げる自己犠牲が未だ横行したり、「セックスが好き」な女性が「やりまん」と呼ばれるじゃないですか?この混沌の中で話題になるのが女性ばかり、というのが、やはりまだこの分野が成熟していない証です。

多くの経験上、男に失望している、という鈴木さんに上野さんはたたみかけます。

恋愛はしないよりはしたほうがずっとよい、と今でもわたしが思っているのは、恋愛というゲームの場では、ひとは自己と他者についてとことん学ぶからです。恋愛は自分の欲望、嫉妬、支配欲、利己性、寛大さ、超越について教えてくれます。恋愛とは相手の自我を奪い、自分の自我を放棄する争闘の場です。わたしは恋愛を甘やかな経験だと思ったことがありません。その過程で、どうしても他者に委ねることのできないぎりぎりの自我の防衛線や、踏み込んではならない相手の自我の境界線を、自他共に傷つき/傷つけながら、ようやく学びます。

恋愛とはなんとも難解でハードなゲームなのでしょう!私自身、恋愛にいい思い出がなく、常に疲労と責務とフラストレーションに追われていました。それが学びの機会だったかと言われれば・・・、うーん分からないけど、もう一回まったく言葉の通じない国で留学したほうがマシ、という気分です。男はもううんざり。

女と肩を並べたり女に教わったりしながら働くことに慣れてきた今の男性たちは、尊敬の対象(先生や同僚)、庇護の対象(妻や娘)、性の対象(娼婦や愛人) というように、女性をシンプルに3種類に分けて認識しているような印象がずっとありました。

そして、そのジャンルの中に止まらない女性を毛嫌いすると。ホステスやキャバクラ嬢が好きでも自分の娘がそうあることは極端に嫌ったり、バリバリ働く部下が女性でも構わないのに自分の妻がそうなることには抵抗があったり。・・・はいはい、そうなのよ、こういう経験あります。自分より学歴も給料も高い女性と結婚する男性が少ないのはこの辺から来ているのでしょう。そしてさらにはジャンルの違う女性同士を対立&差別し合う仕組みにまでつながります。専業主婦 vs ワーキングママの抗争は記憶に新しいことと思います。

私の住むエリアでは日本人の母親が家庭を養う勢いで働くパターンが極端に少ないので(生活費の足しになるようなタイプの仕事をする人はいるけれど)、私も「子供をこんな小さいうちから預けてかわいそう」的なことを時々言われたものです。痛くも痒くもありませんでしたが。

それよりもグサグサくるのが、上野さんのこの言葉。

「結婚とは、自分の身体の性的使用権を、特定の唯一の異性に、生涯にわたって排他的に譲渡する契約のこと」と。  自分で書いていても、おぞましい定義です。

ええ、ほんとに。まぁそれを心の底から望むなら美しい契約なのでしょうが、そもそも結婚というシステム自体が無理ゲーだと思っている私にとって、この定義には賛同しかありません。そもそも愛し合うカップルが結婚というシステムに則る必要はないわけで、それでも結婚してお互いの権利を所有したことによって、自分の身体の扱いに対して他人の承諾が必要になるなんて、つくづくよく分からない仕組みだな、と思います。そもそも結婚するから離婚も起こりうるわけで。しかも最近は風紀委員がたっくさんいる日本では、芸能人の不倫とかにみんな熱くなりすぎですよ。Mind your own business!! 君たち関係ないから!ただ上野さんもおっしゃるとおり、出産によって家族という絆を選ぶかどうか、というのはもう少し込み入りますよね。私自身、その決断をしてその後あっけなく破綻したわけですが、だからと言って家族という形を作らない方がよかったのかと聞かれたら、その答えは闇の中です。いや、たぶん作ってよかったんだと思います。そうでないと本当の意味での比較対照ができませんから。

恋愛と呼ばれるものが、少女漫画で恋を学んだ女と、AVで性を学んだ男が、同じ部屋を別の文脈で「共有」し、お互いをなんとか自分の文脈に引き込もうとする無理な話のように見えます。

ちょうど今、この記事を書きながら次女と話していました。LGBTQが進んでいるアメリカでは、いろいろなカップルが日常できあがるわけですが、「私はストレートだけど、男の子はアホだしめんどくさいから、一緒にいるのは女の子がいいんだよね〜、生理の苦しみとかも分かり合えるし」と2日目の生理痛に苦しみつつ話してくれました。ブルセラやAVの現場で、嫌というほど男の性を見てきた鈴木さんの重い発言ではありますが、ただただ分かりみ。

もうひとつ、私の心の支えとして繰り返しておきたかったこと。「おひとりさまの老後」でも上野さんは所々で述べていますが、「男友達は去っても、女友達はいなくならない」という真理。年齢を経てから仲良くなった友人も豊かな友情が育めると、経験談とともに教えてくれます。アメリカ暮らしが長くなると、将来子供たちに物理的にも精神的にも面倒を見てもらおうという気概はごく自然になくなります。だからこそ女友達のネットワークは心を込めて維持する必要があるのです。結婚していたとしてもおひとりさまになるのは早いか遅いかの違いしかない、という上野さんのごもっともな意見は、全女性への一生で1、2を争うアドバイスではないでしょうか。

ひとを信じることができると思えるのは、信じるに足ると思えるひとたちと出会うからです。そしてそういうひととの関係は、わたしのなかのもっとも無垢なもの、もっともよきものを引き出してくれます。ひとの善し悪しは関係によります。悪意は悪意を引き出しますし、善良さは善良さで報われます。権力は忖度と阿諛を生むでしょうし、無力は傲慢と横柄を呼び込むかもしれません。

「上野さんはなぜ男に絶望せずにいられるのか?」という何度も尋ねてきた鈴木さんに対する答えです。私は連絡を取る男友達は数人いますが、100%信じるに足ると心から思える人かはよく分からないのは、私が善良さを持って付き合っていないからなのかもしれない、と気付かされました。・・・でもやっぱりあいつら信用ならない。

社会変革とは、ホンネの変化ではなく、タテマエの変化だと考えています。そして、そこまでが限界だと考えています。

この本のタイトルにもなった究極のテーマである「限界」という言葉が出てきました。30年前にはOKだった同じふるまいが、今日はアウトになった、というその時代の空気の変化に対する人々の鈍感さが罰されている、と上野さんは説きます。でもその先にある想像力までは取り締まれない、と。

私が20年以上前に日本でOLをしていた頃はセクハラという言葉がジョークとしてしか通用しない世界観がまだまだ主流でした。オフィスでは若い女性がかわいがられ、接待のカラオケ要員として呼ばれてセクハラまがいの言動も笑顔で受け入れるプレッシャーが満載で、私が日本の外に出たかったのもそんな世界での将来を危惧してのものでした。この本を読んで、日本も社会変革が進んでいる、との印象を受けましたが、私の周りにいる日本人男性(特に日本から来て日本へ帰る予定がある方々)に関しては、その変革を受け入れたようには見えません。詳細は避けますが・・・。それでも亀以下のスピードではありますが、客先からの電話で「女の子じゃ話にならないから、男性社員に変わって」と言われたり、忘年会でチークダンスを強要されたり、というあからさまな蔑みは改善されているようで、今後を注意深く見守りたいものです。

まだまだ女性が自立するには高い壁がそびえる日本では、生存戦略として「だから女の子は」と言われるような言動、または人生の選択をする女性もいます。たとえばパパ活とか、シュガー・ダディーとか。

その構造のもとに置かれた女性が自分の持てる資源を最大限に活用して有利に生き延びようとするふるまいを、誰も責めることはできません。わたしには「専業主婦になりたい」という娘たちですら、時代錯誤どころか、自己利益を最優先した選択だと思えます。この選択を翻訳すれば、彼女たちは「夫や子どもに尽くす人生を送りたい」とはこれっぽっちも思っておらず、「きびしい競争社会から距離を置いて余裕のある暮らしをしたい」という(男性には許されない) 選択肢を、ジェンダーの用語で粉飾しているだけのことだと思えます。

私自身を含め、「自分の幸せは自分でつかむよ」と戦略を立てるタイプもいれば、別の道をたどる女性もいます。自己利益を追い求める、という点でゴールは同じですが、そこまでの経路が対照的なため、そこで女性同士が争い、男性が思うがままの分断支配が始まるのには辟易します。男も女も自分自身のために人生を歩めばいいんじゃないですか?ただそのためにも、男性だけに有利になるような社会が根絶されるように、せめて女性同士は協力し合わないと。

最初はぎこちないお二人のやりとり、上野さんのはっきりした物言いに、懸命に丁寧に答えようとする後輩の鈴木さん、あららどうなるのかしら〜なんて最初のやりとりを読んでいましたが、便りを重ねることによって二人の心が通い合ったように感じました。鈴木さんの細やかなご自身の心理描写と、控えめかつ真摯に上野さんへぶつける質問に、上野さんが持ち前の表現力でお考えを示しつつ、それ以上のことまでついつい語ってしまう。そういう時を重ねるごとに微妙に進化するおふたりの関係性が文章から滲み出ているのも往復書簡という形態の勝利だな、と思いました。今後もこのまま素敵な関係が続いて、第二弾とか出てくれないかしら。

上野さんは「娘は母親のアキレス腱を見抜き、もっとも苛烈な批判者になります」と鈴木さんに忠告しています。私も一心同体の関係性ではあるけれど、びっくりするくらい冷静沈着かつ論理的な娘たちがそうなる可能性をひしひしと感じつつ、1年間の往復書簡を通して心を通い合わせた母娘のような上野さんと鈴木さんにも訪れる未来だったりして、と思ったりします。でも「オヨヨヨ・・・」と悲しむ私とは対照的に、成長した鈴木さんの愛ある批判に、腕まくりをして応戦しそうな上野さんが目に浮かぶのは私だけでしょうか。



いいなと思ったら応援しよう!