いつもと違う道
が、好きだ。
毎晩の帰り道も、旅先で街を一回りするときも、違うパターンの道を歩きたくなる。
これって普通のことですか?
思うに、ルーティンは毎日を平穏に過ごすために生み出されるものである。
特定の条件下で同じ動きをすることで、対処を都度考える手間と時間とエネルギーを極限まで減らせる。
メールのテンプレートも、投手が投球前にする一連の動作も、バスの運行表も。
なんなら、挨拶や言語などの人間のコミュニケーションのほとんどが、ある意味ルーティンだと言える。
初対面の人と友好関係を築きたいときに、最初のコミュニケーションの取り方を知らなければ、先行きはあやうい。
また言語が通じるというだけで、旅行時の心理的ストレスは相当減るけれど、それは言語というルーティン化されたツールにより、現地でのコミュニケーションの負荷を下げられているからだ。
私たちの文明や生活はルーティンを形作ることなしに、ここまで大きくなることはできなかった…かもしれない。
では逆に、そのルーティンから外れる方向にはたらく、人間の性ってなんなのだろう。
好奇心と理性だろうか。
(最初は好奇心しか思いつかなかったけど、純粋な研究者が、ある種 冷静と情熱の狭間で未知の細胞を発見していくような過程もルーティンからの「逸脱」という側面はあるのではないかなと。理性…というより、使命感かな?)
最近意識的にやっているのは、なるべく外を歩くこと。そしてたくさんものを知覚することだ。
例えば、今は彼岸花の季節だ。彼岸とはあの世の極楽浄土のことで、秋の夜長に揺れる赤い花はとても儚く、妖艶である。
少し前に、外を歩いていて見つけた赤いつぼみが彼岸花みたいだなあと思っていたら、翌日本当に彼岸花が咲いていた。なんとなく、嬉しかった。
同時に、彼岸花って葉っぱらしい葉っぱがないんだ、とか、なんとなく球根で殖えそうだな、とか、横を通るたびにちらちらと観察してしまう。
そして先ほどお彼岸がいつなのか調べたら、まさに9月20日〜26日(今年の場合)と出てきて驚いた。植物の体内時計の正確さには、いつも本当に驚かされる。
いや、ちょっと待てよ。人間以外の生物のほうが、よっぽどルーティンに則って生きてるな。
植物は気温などの環境条件に応じて、花を咲かせたり紅葉したり呼吸したりする。動物も、本能には従うけれども、そもそも本能はある条件における行動パターンの総称、つまりルーティンだ。
となると、人間を人間たらしめているのはルーティンから逸脱した部分、ということになるのかな。
というわけで、私はこれからもルーティンにはまらない生き方をしたいのだな、と総合して考えている。
逸脱、余剰、決まった枠の外にはみ出した部分、そういうものに関して、今日読んだ本から考えたことをもう少し。
ポテンシャルというのは、決して演繹的な存在ではない。
ポテンシャルが高い=今の状態からスキルをこう蓄積していくと、最終的にはこんなに素晴らしくなる、というのはなんだか嘘くさい。
そうではなく、本流とは関係のないこともひっくるめて何かを吸収する素地、余白があるというのがポテンシャルになってくるのだと思う。
だから、先の時間がたっぷりある時こそ、「余白を広げる機会」をつかんでいくことが大事だと感じる。(余白は、何かをしても埋まりはせず、むしろ余白のままさらに自分の世界の境界線を拡張させていくからだ)
というのが、蟻塚の中に一定数のサボり蟻がいることの全体へのメリットの話を読んで思ったことです。
最近は、自分の中のサボり蟻を駆逐してしまっていた気がする。気をつけよう。