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湯気の向こうの朧月

週末、佐賀に行く用事ができた。

佐賀は未踏の地。せっかくだったらひと時でも素敵な思い出を作りたかった。

降り立つ予定の佐賀空港から、いくつかのルートで乗合タクシーが出ている。
その行先の一つに、嬉野温泉があった。久しぶりに1人で温泉に浸かろうと、そこで宿を探した。

金曜日。
同僚たちは今日も働いているが、わたしは休みだ。
でも、気を抜くと会社のメールの受信BOXを見てしまう。成田空港へ向かう電車の中、最低限の労力で返信を飛ばす。

飛行機ではずっと眠かった。
どうせネットもつながらず、仕事をしていないことへの罪悪感も薄れた。佐賀に着く前、気流の影響で飛行機が大きく揺れたが、それも心地よいくらいだった。
通路を挟んで向こうに座っていた小さい女の子は、ことばを覚え始めたばかりのようで、意味があるようなないような単語をずっと歌っていた。かわいかった。

佐賀は思ったより寒かった。
空港で待ってくれていた乗合タクシーの運転手さんは、発車しながら「昨日はマイナス2度か3度までいったよ」と言っていた。

乗合なのに、乗客は私一人だった。
道中、ずっと無言だったが(わたしは少しうたた寝もした)温泉街に着く頃、「今日の夕飯の場所は決まっているのか」と聞いてきた。
宿には頼んでいない、と答えると、宿に行く前に観光客に人気の居酒屋の前を通ってくれるという。
「まあ、地元の人はあんまり行かないけども」

旅館のロビーはとてつもなく広々としていて、その手前の一角を大きな卓球台が占有していた。応接のソファより手前にあって、その堂々としたたたずまいがなんとなくおかしかった。

部屋は清潔で、角部屋で、暖房が効いていた。
入ったとたんに全身の神経がふっと緩んだ気がした。この瞬間から取れる選択肢がどんどん頭の中で増殖していく。

外から入る午後の光はぼんやりと明るく、「暗くなる前に散歩しようかな」と思った。
エアコンが8時頃に動くようにタイマーを設定して、部屋を出た。

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外は相変わらず寒く、陽も出ていなかった。
ほとんどだれもいない道を歩いていくと、神社につながる参道に出た。
日が落ち始めていて少し怖かったから、明日の朝行こう、と思った。

観光案内所で街の全体図をもらい、なんとなく公衆浴場の方へ向かう。
途中で寄りたかったセレクトショップは、案内所のおじさんが言うようにもう閉まっていた。
おじさんは明日行けばいいよ、と言っていたけど、明日はこの街を朝7時半に出なくてはならない。当然、開店はもっと遅い。
仕方ない。全部の出会いが得られるわけではないし、見たかった焼き物だっていつか全然別の場所で出会えるかもしれない。

たびたびテレビなどで取り上げられるのか、ここは小さくとも観光地として回っているようだ。
照明の明るいお土産屋さんが連なり、店先でお店のおばちゃんと観光しているおばちゃんが話している。
八百屋さんでは、みかんが一かご200円で売っていた。ちっちゃくて皮が黒っぽいやつ。買えばよかった、と旅館に戻ってから後悔した。

公衆浴場は洋館みたいなハイカラな建物だった。
入ってすぐ、おじいちゃんの好きそうなテレビとソファの円陣があり、実際に4、5人のおじいちゃんたちが無言で座っていた。

浴場は女学校みたいな廊下の突き当たりにあり、また脱衣所も、休み時間中の女学生みたいなおばあちゃんで溢れていた。
何万人もの人を迎えてきたお湯は、自然な透明さを保ちながら外の青い光に揺れていた。
良い、湯だった。

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だれもいない休憩室で少し休んだ。
ひとり旅だなあ、と思った。

行きとは違う道で、中心街のほうに戻った。
坂の途中に突然仏像とお堂が現れて、黄色っぽい優しい灯りに照らされていた。その向こうで月がぼんやりと白い光を放っていた。

金曜日の夜なのに、人通りはほとんどなかった。
さっきタクシーの運転手さんに教えてもらったお店に行くかどうか、すこし迷った。
湯豆腐が有名なお店らしいのだが、湯豆腐は明日、宿の朝食で出てくるはずだ。
ならば…と、途中で見つけた炉端焼きのお店に入ることにした。通りに二つ炉端焼きのお店が並んでいたので、Googleマップで評価が高そうなほうに決めた。

引いて開けるタイプの扉を開けると、店内には一人も客がいなかった。
すみませーん と声をかけると、若い大将が出てきて、カウンターの席に案内してくれた。

生ビールを頼むと、お通しでおでんが出てきた。それで満足して、今日はここで締めまでいこうと決めた。

鶏ハツと豚なんこつと明太ウィンナーの串焼き、それから桜ユッケを頼んだ。
それぞれちょうどいいタイミングで出てきて、しかもどれもすごく美味しかった。

なんで他にお客さんがいないんだろうと思っていたら、常連らしいおじいさんが入ってきた。
おじいさんは、ビールとぶりかまの塩焼きを頼み、おかみさんらしい女の人としゃべっていた。ぶりかまも美味しそうだった。

串や魚が少しずつ炙られているとき、わたしの後ろのスピーカーからはロックみたいな演歌がずっと流れていた。
ものすごくガサガサした音で、とても音痴に聞こえるのだが、店の人は気にしていないようだった。そのうちわたしもどうでもよくなった。

やがてどこかで聞いたことのある音楽が流れてきたので、調べたらこの前の紅白でAIの美空ひばりが唄わされていた曲だった。あまりに昔の音源のように聴こえるので、原曲があったのかと思ったけど、ちゃんと去年作られた曲だった。

さつま美人という焼酎を水割りで頼み、とろほっけの塩焼きを少しずつ食べる。
先ほどきたおじいちゃんは酒が回ってきたらしく、声がどんどん大きくなっていった。すごく伝えたいことがあるような話し方をしていたけど、内容はあまり覚えていない。

お腹がいっぱいになったので、帰ることにした。
大将もすごく明るくていいお店だった。

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宿へ帰る途中、足湯のスペースがあり、蒸し足湯なるものもあった。
その一角が綺麗にライトアップされていて、夜の暗闇の中で料亭の個室みたいな雰囲気を醸し出していた。

そこで一人、足を浸けながら本を読んでいる女の人がいた。なんだか衝撃的にあたたかい風景だった。
わたしもできれば入りたかったけど、タイツを履いていた上にまわりにトイレがなかったので、諦めることにした。

夜道の寒さはどこまでも深く、一方で温泉街らしい湿度の高さが肌に心地よかった。

明日、新たにひらけていく旅路のことを考えながら、宿にゆっくり歩いていった。

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漆畑美佳
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