チベット仏教「心を訓練する八つの教え」第六偈
「私が手助けし、多くを期待した相手が、私を全く不当に傷つけたとしても、彼らを神聖な師とみなすことができますように。」
親切にしたり、面倒をみたり、手助けをしたり、大きな期待をかけたりした相手が、親切に報いるどころか、感謝のかけらもなく失礼な態度を取ったり、陥れるようなことをしてきたら、大変に悲しむべき状況だろう。
僕も過去を思い出せば、多くの裏切りにあい、心を痛めてきた。
足を引っ張られたことも多い。
しかし、仏教では、このような相手でさえも、自分に親切にしてくれていると感じるようにと説いているのだ。
それどころか、最良の師であると述べられている。
どういうことか。
人は導師の元で忍耐の何たるかを理解することは可能だが、実際に忍耐を行ずる機会は得られない。
敵に出会った時こそ忍耐を行じる良い機会なのだ。
敵のおかげで、自分が徳を積むための機会をくれたと考える。
また、忍耐や辛抱をすることなく、人はあわれみの心を育てることはできない。
敵に対してあわれみの心を持つことは非常に難しい。しかし、その敵に対してもあわれみの心を持とうとつとめなければならない。
人生には敵と呼ばれる人と関わる経験も必要なのだ。
人生の苦難の時こそ、真の経験と内なる力を獲得する最良のチャンスなのだ。
最も悲劇的な状況を潜り抜けてこそ、人は内なる力を発達させ、感情を抑えてそれに直面することができるのだ。