乳がんサバイバー 第1話 マンモグラフィー
2003年3月
左胸の中に大きな塊があることに、ずっと気がついていた。
奥の方からズンズンと突き上げるような鈍痛もあった。当時癌は痛くないと一般に言われていたので、例えば乳腺症のようなものだと思っていた。乳腺炎にかかったことがあり、その時の感触と痛みにそっくりだった。 なので「またか」と軽く考えていた。
* * * * *
当時、私とアメリカ人の夫と息子は関東にある米軍Y基地の中で暮らしていた。息子はまだ7歳で基地内の小学校に通っていた。私はその学校の通訳や書類整理などのボランティアを毎日のようにしていた。
軍人でこの基地に勤める夫は緊急救命士をしていたが、出張のために数ヶ月家を開けていた。
胸の痛みはいつまでたっても収まらず、だんだん心配になってきた私は重い腰を上げてY基地の中の病院へ検査のために行ってみた。ここのトップクラスの女医は難しい顔をしながら胸の触診をしていた。
「乳がんにしては大きすぎるわ、キャンサーではないと思う。大きな脂肪の塊ね、うん、大きすぎるもの」と良った。
「違うとは思うけど念の為にマンモグラフィーは受けてね」と言われたのだが「良かった、癌じゃないんだ」とすっかり安心してしまい、マンモグラフィー検査を受けに行ったのは日にちが合わなかったり、機械が壊れていたりしていたため、数ヶ月も後になってしまった。
マンモグラフィーの予約をボランティアをするためにキャンセルしたこともあった。学校の遠足で通訳をして欲しいという理由で。今考えるとバカなことをしたものだが、この時は医者の「キャンサーではないと思う」という言葉を信じきっていたためだ。
約4ヶ月後、夫が帰ってきたので一緒に病院へ行きマンモグラフィーをすることになった。検査室でアクリル板で胸を潰されてレントン写真を撮る。
フィルムを見た技師の顔色が変わったのを見逃さなかった。
(え?何その顔……なにかあったんだ……)胸がどきりとした。
「念の為にもう数枚とりますね、念のためだから」と繰り返す。
「なにか、悪いものなんでしょうか?」
「それは今からドクターが見て判断しますから、私は何も言えないんです」技師は私を見ないようにしているようだった。
嫌な予感は当たった。フィルムを見たドクターは「乳癌の疑いがあります」と、はっきりと言った。「もっと詳しい検査をしなければわかりませんが、高い確率だと思います」
夫の顔色がみるみる真っ青になる。私は正直、信じられない気持ちのほうが強かった。健康で元気だ。体力もある。
「すぐにバイオプシーをしにハワイに飛んでもらいます、明日の金曜日にでも」と言った。生体検査のためにハワイにある陸軍T病院へすぐに行けという。
基地には当時オンコロジーと呼ばれる腫瘍専門医がいなかったためだ。明日行けとはあまりにも急だ。
「そんなに急に行かなくてはいけないんでしょうか?」と聞くと一刻でも早いほうが良いという。そして私の顔を見て、I'm sorryお気の毒ですと言った。
息子はまだ小学校2年生で、小学一年生の途中でアイダホ州から転校してきて、やっと日本に慣れたところだった。白人しかいなかったアイダホと比べ日本人とのハーフが多いこの学校は息子にとっても嬉しかったと思う。やっと友だちもできてきたところだった。そして日曜日には誕生日パーティーを予定していた。金曜日に行けという医者にせめて日曜日のパーティーをさせて欲しいと月曜日のフライトに乗ることになった。
辛い数日だったがなるべく顔に出さないようにしていた。というよりも実感がわかなかったのだ。
乳がん……? ブレストキャンサー?私が?
すごく元気で毎日のように学校のボランティアをして走り回っていた日々。何かの間違いではないのだろうか?
夫のほうが落ち込んでいた。目を真っ赤にしてたが、私は最初本当に信じられなかったし、なんだか現実の話ではないような気がしていた。
誕生日パーティーの前日、風船を膨らませ、飾り付けをした。当時子どもたちに流行っていて、毎日見ていた海のスポンジのキャラクターの漫画スポンジボブのピニャータ(中にキャンディーが入っているもの、叩いて壊す遊び)を作った。ダンボールに黄色の紙を貼っていく。本の表紙を見ながら顔を書いていく。飾り付けをし、プレゼントを包みながら
「来年はどうなるのだろうか?もう誕生日パーティーをやってあげられないのだろうか?」
そう思うと、急に悲しみに胸が締め付けられ、ピニャータの上に涙がポタポタと落ちた。
いつも陽気なスポンジボブも泣いているように見えた。
パーティーにはたくさんのお友達が来てくれて楽しい一日を過ごせた。この日はおもいっきり明るく振る舞った。いつもと同じに、おもしろく楽しいママのままで。
翌日急に学校を休まされハワイに行くと言われた息子は少し泣いた。
「どうして?どうしてハワイに行くの?」
「大切なことを調べに行くの、ここではできないことなの。でもすぐに帰れるかもしれない、まだ何もわからないの」と説明する。
「乳がんではなかったと帰ってくる人もたくさんいますよ」というドクターの一言だけが希望だった。
3日。月曜日の夜のユナイテッドの便に乗るためにお昼のバスに乗り込む。Y基地から成田まで出ている直通バスだ。夜ほとんど眠れなかったので2時間ほどのドライブの間ウトウトする。
成田空港での待ち時間は長かったがあえて本や雑誌も数冊しか買わなかった。 洋服も1週間分パックしただけだった。
「きっと何かの間違いだから、日本にすぐ帰るなら荷物になるから。すぐにトンボ返りするに決まってる」そう信じたかったからだった。
けれど、その日以来日本に住むことはもうなかった。