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【プロフェッショナルに聞く 第8回 前編】株式会社チャーム・ケア・コーポレーション 代表取締役兼会長 下村隆彦氏 × タミヤホーム 田宮明彦

不動産や税務、建築、労務など、さまざまなプロフェッショナルに、これまで積み重ねてこられたキャリアと実績をお聞きする「プロフェッショナルに聞く」。第8回は、株式会社チャーム・ケア・コーポレーションの下村隆彦様がご登場くださいました。

1943年生まれの下村様は大学を卒業後、アメリカに渡り、数々の建設会社を視察。帰国後はお祖父様が経営されていた会社に入社しました。若い頃から好奇心旺盛に「やりたいこと」にチャレンジしてきた下村様に、これまで歩んできた道のりをお聞きしました。

<プロフィール>
下村 隆彦氏

株式会社チャーム・ケア・コーポレーション 代表取締役会長兼社長
1943年、高知県生まれ。大阪工業大学工学部建築学科卒。1969年、祖父が経営する下村建設に入社。30歳の時、祖父から家業を継ぎ、経営者として手腕を振るう。その後、介護事業に進出。現在はチャーム・ケア・コーポレーションの代表取締役会長兼社長として、介護事業を中心に、不動産事業やAI分野への資本提携など幅広い事業を展開。


学生時代、スラム街に3か月潜入! 現地の分布図を作成し、日雇い労働者の生活を調査する

田宮「下村様はチャーム・ケア・コーポレーションの代表取締役会長としてご活躍されていらっしゃいますが、以前から介護事業に興味がおありだったのですか。」

下村様「いえいえ、若い頃はそこまで考えていませんでしたよ。」

田宮「では、当時はどんな夢を抱いていらっしゃったのですか。下村様がお若かった頃のお話をぜひ伺いたいです。」

下村様「ちょうど高校2年生の頃、タレントのミッキー安川さんがアメリカ滞在について書いた『ふうらい坊留学記』という本がベストセラーになりました。この本を読んだ私はいたく感動し、『自分もアメリカに行こう!』と決めました。」

田宮「なるほど。それで渡米されたのですか。」

下村様「すぐに渡米できたわけではありません。高校を卒業し、まずは大学で建築学を学びました。なぜ建築学科に進んだかというと、祖父が『下村建設』という建設会社を経営していたからです。でも私は図面を描くのが大の苦手で、在学中はずいぶんと苦労しました。」

田宮「そうだったんですね。」

下村様「立体感覚があまりなくて、平面図ならともかく、パース図になるとお手上げでした。課題が出たら、友だちに『昼飯を奢るから』と言って、図面を描いてもらっていたくらいです。でも卒業設計はそうはいきません。自分でコンセプトを考え、図面を描いて提出しないと単位がもらえない。そこで研究室の教授に直談判しました。」

田宮「直談判されたなんて、勇ましいですね。」

下村様「卒業設計ではなく、卒業論文にしてくれと。おそらく、こんな交渉をしたのは、私ぐらいだったでしょう。」

田宮「卒業論文は、どのようなテーマで書いたのですか?」

下村様「研究室の教授が都市工学を専門にしていたので、私も都市工学に関連したテーマを選びました。当時、大阪に釜ヶ崎(※)という街があったのですが、スラム街化していて、夏になると頻繁に暴動が起きていました。私はこの街を調査しました。」

※現在の「大阪・西成」

田宮「自ら足を踏み入れて?」

下村様「そのとおり。釜ヶ崎に3か月潜入し、一般住宅から商店まですべて調べて分布図を作成しました。」

田宮「ものすごい行動力ですね。」

下村様「夕方になると屋台が出て、仕事から帰ってきた日雇いの建設労働者が一杯飲む。そんな光景が名物の街でした。」

田宮「すぐに馴染むことができましたか?」

下村様「一週間で慣れました。学生が街をウロウロするので、最初は街の人々もかなり驚いたと思います。『兄やん、何しに来たん?』とドヤされたことも何度もあります。それでも、気にせず調査していたら、『兄やん、来い』と手招きしてくれるようになりました。

田宮「すっかり仲良くなりましたね。」

下村様「気がつくと、日雇いの労働者がお酒を奢ってくれるようになりました。その後、無事に卒業論文を提出して、大学を卒業しました。」

アメリカの建設会社を30社訪問!――現地で感じたアメリカ人の「懐の深さ」

田宮「無事に大学を卒業された後、いよいよアメリカに渡られたのでしょうか。」

下村様「それが、祖父から『大学を出たら他の建設会社で修行して、下村建設に入れ』と言われまして。

田宮「その通りにされたのですか。」

下村様「いやいや、下村建設に入ってしまったら、渡米は実現できません。」

田宮「ではすぐに渡米された?」

下村様「それが、お金がなかったので、祖父が言う通りに建設会社で2年間修行しました。当時、大卒の初任給が2万2,500円くらい。現場にずっと寝泊まりして、2年間かけて軍資金の40万円を貯めました。」

田宮「その40万円を手にして、アメリカに渡られたのですね。」

下村様「『アメリカの建設会社を30社訪問する』という目標を立てて、船でアメリカに渡りました。ロサンゼルスに着き、現地の商工会議所に行って、大学の先生に書いてもらった推薦状を渡して、建設会社を紹介してもらいました。」

田宮「しっかり準備をしていらっしゃいますね。」

下村様「大学の先生は、推薦状に『ミスター・シモムラは私の教え子で、優秀な建築技師です。あなたの州の建設会社を紹介してください』と書いてくれました。」

田宮「商工会議所の反応はいかがでしたか。」

下村様「30州の商工会議所に打診し、すべての州から『OK』と返事をいただきました。紹介していただいた建設会社も、ほとんどが良い返事をくれましたね。『ミスター・シモムラの訪問を歓迎します』と言ってくれました。」

田宮「それは良かったですね。」

下村様「アメリカ大陸を横断する『グレイハウンドバス』というバスがあって、当時99日間有効のチケットを99ドルで買えたんです。私はこのチケットを買って、3か月かけて30社の建設会社を訪問することにしました。」

田宮「聞いているだけでワクワクします。とてもダイナミックな経験をされたのですね。」

下村様「現地に朝着いたらYMCAにチェックインして、シャワーを浴びて身綺麗になって、スーツに着替えてから建設会社を訪問しました。当時はベトナム戦争のまっただ中で、街にはヒッピー族がたむろしていました。どこか疲弊した空気感がありましたが、私はそれよりもアメリカ人の懐の深さに感動しました。ほとんどの会社が、何のツテもない若者である私に会ってくれたのですから。」

田宮「確かに、おっしゃるとおりですね。」

下村様「ある建設会社を訪問した時、バイスプレジデントが『現場に行きましょう』と車を出してくれました。ものすごく大きなキャデラックで、乗りながら思わず震えてしまったくらいです。」

田宮「それだけ貴重な経験をたくさんされると、帰国したくなくなってしまいますね。」

下村様「お金がないから、現地でアルバイトもたくさんしました。結局、当初の予定よりも長く滞在していたので、しびれを切らした祖父から『帰ってこい』と連絡が入ったくらいです。この時、アメリカに渡って1年2か月が経っていました。こうして、私のアメリカ滞在は終わりを告げたのです。」

祖父から引き継いだ下村建設を守り抜くために決断した「唯一無二の戦略」

田宮「1年2か月の滞在を経て帰国された後、お祖父様が経営する下村建設に入社されたのですか。」

下村様「はい。26歳の時に下村建設に入社し、30歳の時に社長に就任しました。」

田宮「若くして会社の代表になられた下村様は、どのような目標を掲げたのでしょうか。」

下村様「社長になった時は夢と希望に満ち溢れていて、会社を大きくすることばかり考えていました。でも、経営計画を立てて、売上目標を掲げても、思うようにはいかなかったですね。売上はどんどん伸びていったし、社員も増えましたが、利益が出ない。」

田宮「ご苦労があったのですね。」

下村様「祖父が2年ほどして亡くなり、私は社長業が何たるかを祖父から教えてもらうことができませんでした。当時の私の心には、『祖父から継いだ会社を守らねばならない』という強い思いがあり、大きなプレッシャーを感じていました。」

田宮「プレッシャーをどのように乗り越えられたのですか。」

下村様「38歳の時に一大決心をしました。売上目標は立てない、競争入札はしない、赤字工事になるような大型案件は受けないと。」

田宮「なぜそのような考えに至ったのでしょうか。」

下村様「先に申し上げたように、売上を拡大できても、利益がほとんど出ない年が何年も続いたからです。なぜ利益が出ないかと言うと、売上目標を達成するために、『赤字になってもいいから』と無理して大型案件を取っていたからです。ならば、『ビッグよりもベストを目指そう』と発想を転換しました。雑工事――今で言うリニューアル工事を中心に受注する方針に、舵を切ったのです。」

田宮「結果はいかがでしたか。」

下村様「数年間はしんどかったですね。でもだんだん利益が出るようになりました。その後、バブル経済が到来し、同業他社は波に乗って大規模案件を積極的に受注し、どんどん規模を拡大していきました。それでも私は方針を変えず、雑工事に徹しました。」

田宮「考えを貫いたのですね。」

下村様「結局、皆さんもご存知の通りバブル経済は瞬く間にはじけてしまいました。仕事が一気に減って、私の周囲でも知っているだけで30社は倒産してしまいました。」

田宮「堅実な経営姿勢を崩さなかったからこそ、下村建設はバブル経済がはじけても生き残ったのですね。」

下村様「そうかもしれません。不動産価格が暴落し、雑工事も競争が激しくなりました。当時、内部留保が20億円くらいあったので、それを担保に銀行に融資をしてもらい、不動産を購入しました。毎年、数億円の家賃収入を得られるようになり、不動産事業だけでも経営が成り立つようになったのです。」

田宮「なるほど。賢明なご判断ですね。」

下村様「ありがとう。雑工事も順調に受注していき、下村建設の経営はさらに安定していきました。」

〜〜「プロフェッショナルに聞く第11回 後編」に続く〜〜

タミヤホームでは、年間1,000件の解体工事を手掛けています。
また、解体工事だけでなく、解体工事発生前の、空き家や相続、不動産に関するお悩みを解決する無料相談窓口も開催しています。
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