わからないものに無理やり間違った答え、例えば神とやらを当てはめる必要がない
全能の神を作ったのは、いったい誰なのか? というのは、無神論者が、神がいるといってきかない人たちへの質問だ。それを逆手にとって、では神がいないとして、どんどんさかのぼり、ある段階を超えたら、答えが結局わからないじゃないか? だから、「神が最初だと決めて考えるのが宗教だ」なんていう子供だまし、ただの詭弁に、「いいね」を押しているのは、あまりにも無意味で、何の説明にもなっていない。
なんで、間違っているとわかっている仮定をあえて真にして考える必要があるのだろうか? 神など存在しない。そしてまだ私たちの科学では、ある一定以上の始まり、生命のスタート地点、いや世界の始まりを、(もしくは本当に始まりなどないのかもしれない)確定できてない、それだけだろう。
だからといって、悩み苦しんで絶望する必要など何もない。わからないものは、まだわからないと考え、少しでも答えに近づいていく、その積み重ねが科学であり、べつに誰かに押し付けられているわけでもない。科学的思考を持つものは、できる範囲で知りたいと考えるが、間違っても、神とやらでごまかさない。それだけのことだ。
様々な宗教で語られる、全知全能の神も、私たちと全く同じ人として以外のお釈迦さまも、実際は存在しないのもほぼ明らかであろう。だから蓋然性における無神論なのである。
万が一、それでも存在している可能性を考えたなら、そいつはおそらく邪悪な存在である(悩みを持つ人間にとっては、少なくともそうであろう)、もしくは、始まりであっても何もできない傍観者に過ぎない。たとえばコップの水をこぼして呆然としている赤ん坊のようなものだろう。いてもいなくても、もはや役に立たないし、祈る意味などなにもないということではないか。