蛍火の杜へ VS 進撃の巨人
いや、何を言っているのだろうと、自分でも思う。こんな物は戦わせるべきではないし、そもそも誰も戦わせようなど考えない。どちらの制作者、関係者にも失礼である。 あまりにもジャンルが違いすぎる。
訴えたいことも、意図も、そして多分本来作者が想定している受け手の層もかなり違うはずである。
(いや、どうなんだろう? それはわからない。そもそも作者がどんな視聴者に見てほしいかとか、考えるだろうか。誰でも見て楽しんでくれたらということだろう。嫌いな人がいたらごめんなさいってことだと思う。)
もちろん作品が扱う時間軸も違う。
ちなみに、この脳内対決は、どちらもアニメ版についてである。
両作品の作者の方、緑川ゆき氏、諫山創氏の両名も、どっちが勝利したのかなんて言っている視聴者がいれば、単純に呆れるだろうと思う。失礼な人だと思うだろう。両名が互いに知っているかどうかは知らないし、どちらかは、どちらかの熱心なファンであることもある。いや、互いに、もしくは片方が、作品、作家の信者である可能性もある。
そう思うと、そんな事書く人は、もう私の作品は見ないでくださいと、思われるのは怖い。脳内にとどめておいてください。ゴミをまかないでくださいと言われるかも知れない。
その結果、夏目友人帳を見れないなら、辛い。泣きたくなる。
だが、これはあくまで、どっちが私という個人は、何度も見たいか、そしてという、シンプルなどうでもいい話である。
進撃の巨人を視聴した時間は、あまりにも膨大であり、自分でも間違いなくストーリーに夢中になっていた。
だが、どれだけ考えても、私は、自分がどちらか一つしか選べないと仮定して、どっちが見れてよかったかと聞かれたら、蛍火の杜へのほうが、娯楽作品としてずっと好きなのだ。
私のこの感覚が、全ての進撃の巨人に込められた様々な暗喩(メタファー)や、いわゆる隠し設定(作者が、ちゃんとヒントを与えているであろう)を全部理解できたとしても、それが変わることは無いと思う。
私はその理由を知りたいのだが、自分自身上手く説明できない。多分それが私という人間の感性なのだろう。みんな違ってみんないい、、、(のだろうが)きっと単純に言語化して、自分で、ああ、それで俺は、あの時そう思ったのかと納得できる時が来ると思う。
もしかしたら、今の俺はやはり、何もわかっていなかった。
進撃の巨人、神です!!
と思い直すかも知れない。(まぁ、だからといって、私が蛍火の杜へを、つまらないと感じることは一生ないと思うが)
===============
今、ふと思い出した。信じられないことに、ものすごく重要なことを忘れていた。ファイナルシーズンの最終回まで、あまりにも時間が経っていたからだが、私の一番好きなシーンは、サシャが巨人の目に持っていた矢を突き刺すところだ。
KOEIのゲームでも、そのチャプターだけ、何度もやったのを覚えている。
そして、私は多分サシャが死んだ時に、怒ったのも間違いはない。ガビにではない、作者にである。理屈なんてどうでもいい!! という抑えきれない情動であった。もちろん、それは落ち着いて解消したはずなので、その後もしっかりモノガタリを追いかけ続けていて、最終回を見た時もほとんどそれについて思い出さなかったのだが。
多分、私がサシャの死亡直後に同人小説を書いていたら、サシャだけは助けてセカオワ系になると思う。
これは私の脳内では、進撃の巨人が、本来の評価を勝ち取れない(実際凄い作品なのだから)大きな理由の一つであることは間違いないのだろう。だが、それだけではないはずだ。
==============
私は、今一度、当時何を考えていて、この作品をそれからも追い続け、そして、つい先日モノガタリの結末を見て感じたことを、つなぎ合わせて、なぜ自分がこの作品を個人的に本当に好きになれないのか、自分なりに答えが出たと思う。作者が視聴者に、(あるいは漫画の読者に)与えていく、一つ一つの隊員や登場キャラクターの死に至る、シーンの重さと、結末の描き方が、結局はエレンとミカサと、ユミルという3人に集約されてしまう気がして仕方がなかったのだ。それはやはり神話の構築であろう。
その神話、モノガタリのために、(そして作者の読者の期待や、希望を、ぶち壊したいという周到な計画性が、見事に効果を発揮して)別に誰か登場人物が死のうが、生きようが、どうでもよくなった上で、じゃぁ、モノガタリのテーマはどうなんですか、どうやってこのモノガタリを収束させるのですか、そして残ったテーマはなんなんですかという、第三者視点で見ることを余儀なくさせた結果、なんだ、最後は、このモノガタリの全ての事象が、私にすれば、ものすごく個人的な関係性に収束してしまったと感じてしまった訳だ)
エレンとミカサのシーン、エレンとアルミンのシーン、友情と愛情を描いている全ての創作物にこれ無しでは、なかなか感動を作り出すのは難しい、あるいは感情を揺さぶるのは難しいシーンが、私にはほとんど何の感情も引き起こさなかったのは、作者がまさしく今まで描いてきた、個々の登場人物の死亡シーンのインパクトであり、死によるキャラクター同士の、生きている世界における関係性の切断であり、それなら、個人的な愛だの友情だの生への執着だの今更描いても、もう仕方ないでしょうとしか思えなかったわけだ。
上手く言語化できたとは思えないが、私は、それがこのモノガタリ、神話を本当に好きになっていない自分への答えなのだと、今は思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?