非対称な責任が理解できない人たち
野党議員が「総務省内部に実在する行政文書」を職員から渡され、内容について国会で質問すれば、国会内で参考資料として配布させることも許さない。もうこの時点で、与党は公の前で内容についてしっかり議論する気がない。一方で、野党議員は興味のある人はだれでも調べれるようPDF化して配布している。
全く弁解になっていない理由で、「完全な捏造」と決めつけた時点で、すでに対応を誤っていたわけで、自業自得で「これが本物なら辞職するのですね?」と問われたら、訂正すればいいのに開き直る。
挙句の果てに内部文書が存在する理由として、自分が管轄すべき立場である総務省内の陰謀論のようなことまで、憶測だけで言ってしまう。普通そんな態度は「思慮の浅さ、誠実さの欠如」を感じさせるだけなのだが、悲しいことに一部の国民は、その浅はかで直情的な言動を「かっこいい」とか、「潔い」と感じてしまう。
まぁデジタル思考、善と悪の二元論という、私も大好きなファンタジー設定で見てしまう人がいるのは理解できるから、高市さんステキと思う人がいるのは、まだわかる。だが、もし捏造なら質問した小西議員も辞職しないといけない、などと言い出す人が少なからずいるのは本当に嘆かわしい。
告発のため、実際の官僚からの内部文書、(しかも同じものが総務省内にもあることは、認められている)を託された野党議員が、国民への責務を果たし、関係閣僚に質問するという当然の行動の結果、何らかの事実誤認や、ディテイルの齟齬があっても、それで質問した国会議員が辞める必要があると考える人は、「非対称な責任の違い」が理解できないのだろう。
官僚の作成した、総務省にある内部文書が誤っている、虚偽というなら、一体何の責任が、それを手渡されて、国会で質問した野党議員にあるというのだ?
まぁ、「単純でコントロールしやすい思考」が、一部の国民にあるからこそ、政治家は大げさな言葉を使い、その単純な思考に訴えるし、そんな国民が増えれば、増えるほど、民主主義から離れていくのは間違いないだろう。
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