周庭の手法を咎めなかったものは、誰も中核派を否定できないだろう
共産主義革命の方法論として暴力を完全否定しない中核派全学連の史上初らしい女生委員長を呼んで、ABEMAが芸能人や芸能人コメンテーターや芸能人社長、アナウンサーなど6人近くで、たった一人を取り囲み、暴力肯定 or 非肯定という、とても繊細で丁寧な議論が必要なはずのテーマを、ただの政治芸能ショーにしたのを見ながら、この委員長の言っていることは、周庭氏とほとんど同じだと、私は感じていた。
それは私がずっと、政治権力を持っている既得権益層から、一般市民が政治権力を取り返す時に、犯罪として否定される「暴力」と正当な「抵抗」を分けたところで、動く、歩く、という行動だけであっても、それを望まないものにとっては、場所と時と人数などによれば、違法であると断じ攻撃しかねない、日本社会の実情なども考慮しながら、ともかく答えを出すしかなく、結局はいかなる「暴力」も肯定できない、「暴力」から徹底的に離れた「抵抗」しか自分は取らないし、頑なにそれを守る政党こそ野党の中核であるべきだという、過去の思考、そのままの焼き直しである。
つまりは、戦争という巨大な暴力を否定するための、あるいはいかなる政治的目的を達成するための方法論も、徹底的に非暴力であるしかないという結論である。
自分の昨年の記事を読み返しながら、(まさしくテーマは周庭が選び、日本の大人たちが批判しなかった手段について、でもあるから)なんとなくWEBをあさったら、私の記憶は事実=つまり間違いなく周庭は暴力による抵抗を肯定していたのが再確認できた。
もしも香港は政治状況が特別だ、というなら、それはあくまで周庭と彼女たちにとっては特別ということだ。 香港と日本との違いとは、彼女たち香港の一部学生中心の民主派が戦かった相手は、中国の、自由な選挙を抑圧する共産党政権であり、日本の中核派が戦っている相手は、彼らにとっては、民主主義の名において、資本家が、一般労働者と庶民を支配し、搾取して、少しでも庶民が本気で抵抗すれば、自衛隊や警察組織を利用し、マスコミさえ利用し弾圧する、戦争へと突き進む、親米政権であるという、それだけの違いだ。(それが中核派の見立てなのである。)
それは、例えば米軍基地に反対する、暴力と呼べるはずがない牛歩戦術ですら、事故が起こり、権力側とその同調者から糾弾されてしまう事を考えたら、彼らの主張を全否定はできないだろう。ようは、どの視点から見るかで、見え方は変わって当然なのだ。
あとこれだけは疑問だったのは、香港の民主化を願い行動していた様々な若者や学生リーダーの中で、なぜか日本人の大人たちは、周庭ばかりに近づくのを、私は本当に気持ち悪く感じていて、その不信感、気持ち悪さは今もそこらじゅうで見られる、亡命まですることとなった周庭氏への執着ぶりに感じている。命がけで戦っていた活動家を、政治アイドルかタレントと勘違いしてないか?
結局、若い女性で見栄えがいい周庭にイデオロギーを理由に、彼女が日本の大衆文化ファンであることを利用し、マスコミやジャーナリスト、文化人は様々な目的で近づいただけだろう?胸に手を当てて、本当に考えてみろ。香港の民主化よりも、それが一番の理由ではないのか?
日本のメディアが香港の民主化運動を語るとき、そのほとんどのリソースは実際に周庭にさかれていたし、彼女ほど日本人の協力や支援を勝ち得た者はいない気がする。
そんな日本における周庭の支援者達は、周庭が明白に述べていた、暴力による抵抗運動は、香港の活動家だから批判せず、日本で平和を唱える中核派の女性リーダーが、暴力的手法について述べれば、みなこぞって「暴力は認めない、賛同しない」と語る、そのダブルスタンダードはいったいどこからくるのだろうか。