選挙狂騒曲
おそらく私の過去の書き込みから、興味があるとカテゴライズされ、オススメされたため初めて私が目にした、明らかに自分達が主体となって当選を支援し選挙応援を運営したように誇っていた、某コンサル関係会社によるNote上での企業PRを見た時の違和感、気持ちの悪さは、何も個人的な違和感ではなく、普通に社会経験のある大人なら誰でも感じ取れるであろう、民主主義的選挙が、様々なコンサル会社によるSNSを通じた営利目的の広告ビジネスと結びつく事の危険性だろう。
法的結論がどうであれ、それを認めるなら、本来望まれている公正で金のかからない選挙から遠く離れたより金の匂いのする不公正な選挙へ近づくだけである。
現代社会の病理と思える、自分たち(多数派となった有権者)が望む、願った通りのストーリーで宣伝されるなら、SNS上では多少のルール違反は黙認されるという過ちが、少なくとも選挙においては是正される事を強く望む次第だ。
(当然、現実的な被害者はいるのだが、それは彼らの描いたストーリーにおいては、悪の陣営ということだろうから、そのストーリーに乗って選挙に参加し、勝利側となった者たちにとっては、被害者ではなく悪事を働いた敵と敵の応援団としか考えないだろうが)
既得権益と揶揄されるマスコミとは違い、SNSの魅力はその無制限と思えるほどの自由さである。そのSNSによって意図的に広められたストーリーは、それが、つまらない、ありがちな、わかりやすい悪ばかり強調し可視化しようとする、既存マスコミの報道より、はるかに魅力的で知的好奇心さえ(想像力でしかないのだが)刺激したとしても、そのストーリーを現実問題に重ね合わせた瞬間、どちらも結局は自分で全てを確認できないなら好き嫌いではなく、どちらのストーリーをより真実に近いと信じるべきかは明らかだろう。
もうそんな当たり前が通用しない社会なのだなと思っていたが、少なくとも、コンサル会社によるSNSを利用した選挙ビジネスに対して、多くの一般国民が好ましく感じないなら、その感性はまともというしかない。
今回は国家ではなく自治体の首長選だから、その地の選挙民が自ら考えるしかないだろうが、来年の国政選挙を考えても、SNSと選挙の正しい関係性は、少なくとも金のかからない公正な選挙を良しと考える、私の思う真っ当な人たち全体にとって、真剣に議論されその在り方について考えられるべきじゃないだろうか。
(だがそれを結局決めるのが、その選挙によって選ばれた人たちであり、そしてその国民的な意見が集約される場となるのが、その問題のSNSであると考えると、すでに人類全体の問題を解決するには破綻しているとしか思えない資本主義の原則どおりしか進まないのかもしれない。
つまり、選挙は金で買えるのが当たり前という、悲しき愚かな世界である。