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「山県有朋」半藤一利

昭和陸軍をつくったとされる山県有朋。
かれは政党政治から影響を受けないようするという明確な意図をもっていた。
半藤氏は昭和に遺したものをつぎのように言っている。

山県の遺したものは、ずっと永く生命を保ち、むしろ変容をみせながら近代日本を動かした。
徹底した官僚制度であり、軍制の確立であり、軍令機関の独立である。
かれが自分の権力を拡大かつ保全たらしむために制定した統帥権の独立と帷幄上奏の慣例、軍部大臣現役制、それらが昭和の軍部の政治的進出そして地位強化のために、いかに巧妙に駆使されたことか。
武力を背景に政治をあやつることは、山県のお家芸で、明治維新にはじまり、大正の死にいたるまで一貫していた。
昭和の陸軍は、ある意味では先駆者山県の戦略戦術そっくりをまねた引き写しの感が深い。
とくに「陸軍の大御所」の勢威をバックに、山県は政治の世界に登場する。内務省に堅固な派閥を形成し、徹底的に自由民権運動を弾圧する。
また、明治22年の第一次、同じく31年の第二次山県内閣で実施したさまざまな政策、たとえば文官任用令の改正、治安維持法など、その影響はこれも近代日本全般にかかわる。
山県は元老のひとりとして、伊藤博文とともに、世界に稀有の国家「大日本帝国」をつくった。
とくに山県が理想として描いたのは、いっさいの権威を天皇に帰せしめ、天皇を神格化し、その親政を絶対的なものとする天皇主義国家であった。
「軍人勅諭」と「教育勅語」はその象徴であり、山県は見事にそれを完成させた。
しかも伊藤と違い、山県の遺したものはその後もずっと永く生命を保ち、むしろ進化して近代日本を動かしたのである。
明治から昭和までの三代に、この人に匹敵する人物はどの畑にもいない。

そして山県有朋が、自由民権運動を毛嫌いしたのは、つぎのような体験からでている。

自由民権論者はしばしば天賦人権論を主張する。
基本の人権にもとづいて、すなわち世論にもとづいて政治を行うことは、国家に対する国民の関心を高めることになり、国家を強大にすることに役立つ、とかれらは強調する。
そして外国の歴史的事実をしきりに援用した。
それらはフランス革命であり、アメリカ独立や、マグナカルタであり、パリ・コミューンであった。

山県はこれを全否定した。
わずかでも正当性は認めなかった。
過激な人民党(パリ・コミューン党)が革命を起こし、フランス王室を倒した。
かつて、この前夜の実情をみてきた山県の眼には、自由民権運動をこのまま放置すると、これが天皇家もフランスの轍を踏むことになる、としか映らないのである。
フランス人は皇帝を愛さず、議会を愛した。
この思想はやがて日本にもくる。
せっかく成立しようとしている天皇中心の国家は累卵の危うきに置かれる。
山県はそのことを心から怖れた。

山県の目指したのは軍人が主導する天皇国家なのである。
そこには国民の声を聴く政治はなかった。
日米開戦を決定する場に、国民を第一に考える政治家がいなかったのは、山県の考えたビジョンそのものだったのかもしれない。


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