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小さな世界

幼少の頃、私の家には姉の「お下がり」も含めた沢山の人形があった。その一つに、イッツアスモールワールドのメロディーを流しながら、首が回る人形というのがあった。

世界中 どこだって 笑いあり 涙あり
みんな それぞれ 助け合う 小さな世界
世界はせまい 世界は同じ
世界はまるい ただひとつ

今日になってそれを思い出して「やはり」と思った。違和感を感じる。

あの大きく、どこまでも不思議が広がっていて、そこかしこにバラバラとした特徴が広がっていて、その「世界」というのに飛び込めばなんでもできるようになるんだという、「子供の無限の可能性」とかいうあの期待と心が踊る感覚。それをこの歌の上では「小さい」というのだ。

いや、考えようによっては、「お前らガキだからって分別つけろよ。所詮できることは小せえんだよ」という注意喚起だったのではないか。そうなってくると「助け合う」の部分が後付けのフォローようにさえ感じる。

別の歌だが、一昔前SMAPの「夜空ノムコウ」という曲が流行った。40半ばくらいの齢の人がシンクロしているとニュースで話題になっていた。この歌詞は「イッツアスモールワールド」とまるで逆の内容である。「明日が待っている」で締めているのは、シンクロ世代へ送るパンドラの箱の最後の希のように思える。

人の一生を阿吽の間とするならば、「イッツアスモールワールド」が阿で「夜空ノムコウ」は吽だ。
そして、希望に対する制限感と、未来に対するかすかな希望。

そのギャップが恐ろしい。

奇しくも、私は昔から捻くれていたので「世界はせまい 世界は同じ」の歌詞に宗教的な違和感を感じ、かつ昔から不眠気味だったので、夜空のむこうに待ちかまえていたのは明日ではなく野球でいうと延長9回表みたいな、なんか決着つかねーなみたいな感覚だった。
そして、いまだに私は阿と吽の制限と希望の間に挟まったまま動けないでいる。

大人になって肩が異常に凝るようになった。マッサージ機に座りながら、なんとなく最初に書いた人形のように首をぐるぐると回してみた。首が痛い。希望と現実とのギャップ、ストレス、人生に於いて残された選択肢の少なさ。それはしこりになって首と肩の上に物体として表面化し、私の「世界のまるさ」小さくしている。

そうか。やはり世界は。「イッツアスモールワールド」なのだ。

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