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人間失格の方程式

恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

例えば、食事のマナーからオープン型イヤホンの装着方法(名称は本記述の際初めて知りました)まで、人の「当たり前」について皆目見当がつかないのです。十数年前、コーヒー店のTULLY’Sを「たーりーず」と読んでその時の片思いの相手に馬鹿にされた時は、顔を赤くし、ただじっと唇を噛んで俯いていました。

自分は人の行動の「常識外の暗黙のルール」のようなものが不思議でたまりません。いや、それらをバカにしているのではなく、無論奇をてらっているのではなく、その「暗黙」がどこからどこまで伸びているのかがわからず、人と同じに見えるように様子を伺い、猿真似をしているのです。

自分は非常に肩や背中が凝るので、よくマッサージにも行きます。しかし、マッサージと呼吸のタイミングがわからず、施術中、治療師の様子ばかり覗っているのです。施術後すまし顔で「ああ、マッサージ中気持ちが良くて寝てしまった」と言うのですが、気持ちが良いのは治療されたずっと後で、内心はぐったりとしています。

自分と他人の間にはいつしか越えられない壁のようなものがあって、伝言ゲームのように続く世の中の「解」がこちらには未だ届いていないように思います。

解がない。そう、まさしく解がないのです。

行動の根本たる解がわからない為に、人の営みとしてぎこちなく、それを埋めるために猿真似をし、案の定失敗をし「道化」となってしまっている。なんとも皮肉なことでしょう。奇しくも太宰の言う「人間に対する最後の求愛」と同じとなったのです。

大学時代の、とある夕べのことでした。知人がライブをすると聞き、代々木まで足を伸ばしたのです。ジャズのライブとあって店内にはサラリーマンのカップルと思しき男女で一杯で、学生の、しかもたったひとりで来ているのは自分だけのようでした。ライブは3ステージで、夕食としてステージの合間にカニクリームパスタを注文をし、ステージ中に食べていたのですが、残り僅かというところで、「はて?」と思い手が止まりました。

お皿のすみに乗った、カニの爪。

お刺身のお花や葉と同じイミテーションなのでしょうか。他の人はフォークできれいに食べるのでしょうか。少しの間お皿とにらめっこをした後
『後者であった場合に失礼だ。とりあえず口に入れたらあとはどうにかなるだろう』
私がカニの爪を殻のまま口に入れたのと同じタイミングで不幸にもステージが始まりました。Jazzyなステージと相反する口から突起物がはみ出た聴客。しまったと思いました。しかし、もう後には引けません。私は上京する日の夜行バスで、8時間かけてカリカリ梅を音を立てずに食べた数年前を思い出しながら、カルシウムの塊をできるだけ周りに悟られず口の中で砕き飲み込んだのです。胃がちくちくするのは、田舎者が都会で背伸びした際に感じる親指の痛みだと思いました。

ワンステージが終わるとお店のママらしきひとが、ジュディオングの魅せられてを彷彿とさせる衣装でテーブルを回り始めました。一眼で先述の<『解』を持った、自分に自信のある、強い女のひと>直感的に彼女を見て私はそう感じました。
彼女は一介の田舎もの学生のテーブルの前に立つと、他のテーブルと同様に「今日は来てくれてありがとう」と私に頭を下げました。滅相もありません。
そのあと彼女が私のテーブルから離れようとしたとき、私はあの、と彼女を呼び止め「恥ずかしながら、後学のために」と付け加えた上で、カニの爪をどうするかママに尋ねました。

「ふふふ。イタリア料理は好きに食べてもらっていいのよ」

ママは変わらぬ自信のある面持ちで、こちらを見てにこりと笑い「お下げしておくわね」と言いました。
その直後。
彼女の目が皿の上で完全に停止しました。

お皿に載っているはずのカニの爪がない。

彼女の揺るぎないであろう自信がその二つの爪のありかによって小さく揺らいだのが暗い店内でもよくわかりました。

ああ、人の営みの解とは何処や

十数年が経ち、三十余歳になります。
未だにあのママの顔の夢をよく見ます。そして、未だに私に向けてあの顔と同じ表情をする人をよく見ます。

ただ、一さいは、過ぎて行きます。

そんなときに人間失格の最後の言葉がよぎるのです。関連はわかりません。ただ、この言葉こそが人の営みにおける一つの解だと思いました。

ただ、一さいは、過ぎて行きます。

この言葉を思い出す時、何故だか、ふふ、と笑いが漏れ、人生は喜劇だと感じるのです。


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