ディスタンス #1【連載11】
下関は大邱と空気までが違った。船でたった半日だというのにここは別世界だ。スンギは下船してもずっと地面が揺れているような気がして足下がおぼつかない。一旦立ち止まり大きく深呼吸をする。そして足を踏ん張ると、歩き出した。
「兄さん、朝鮮から来たんかん?腹すいったっちゃろ?うちはキムチだってあるちゃよ。食べていかん?」
薄汚れたモンペを履いた女が作り笑いをしてスンギに寄ってくる。今まで聞いたことない日本語だ。何をどう返事をするか考えあぐねて黙っていると、
「はー、なんね、わからんちゃ?」
女はさらに早口で捲し立て、すぐに別の下船する者に向かっていった。女の話す言葉はスンギが知っている日本語よりずっと早くてわからない。この国はやっぱり外国だと気持ちを引き締めた。早く兄たちがいる福井へ行こう、スンギは駅の方へ向かっていった。日本語で書いた行先の紙を駅員に見せて切符を買う。スンギは朝鮮で小学校しか行っていなかったが、日本語には自信があった。家では普段、朝鮮語で話していたが、日韓併合によって、朝鮮は日本の植民地になっていたので学校は日本語だった。釜山やソウルなら教師は日本人だったろうが、大邱のような田舎は朝鮮人の先生で、発音は悪かったからみんな気にしていなかった。しかしここに来てみて、自分の日本語はそれ程ではないと気づき焦った。訛りがひどいことを自分では全くわかっていなかったし、下関の山口弁も、わからなさに追い打ちをかけていた。
駅員は慣れたもので、行き先をみると切符を用意し、紙に書いてある行き先の金額の数字を指さした。スンギはそうされたことが恥ずかしくて、黙ってお金を差し出した。駅員が他の人には丁寧なのに自分には、ぞんざいな気がしてムッとなったが、これから先いくらでもこんな目にはあうのだろうと思い、黙って切符を受け取った。懐にある船で買ったキンパ(韓国風海苔巻き)が少し気持ちを暖かくしてくれた。スンギは無口で大人しそうに見えるが、本当は気が短くて負けず嫌いだ。八人兄弟の末っ子として生まれたので、幼い頃の食事時などはボーッとしていると食いっぱぐれてしまう。人に負けたり、ばかにされたりするのが何より嫌いだった。
日本は徴兵で男の働き手の多くが出征してしまい、若い朝鮮人の男性は重宝されていた。だからスンギもすでに敦賀の東洋紡績工場建設へ出稼ぎに来ている長兄を頼り、日本にやってきた。飯が沢山食べられるし、金も貯まる。その金でいつか学校に行きたかった。朝鮮にいても末っ子で貧しいスンギに未来はない。一生漁師か農家の手伝いで終わってしまう。今ならきっとチャンスはあるはずだ。その考えていると、口の中が苦くなった気がしてきて、スンギは地面に勢いよく唾を吐きつけた。
ここから北陸本線に乗り換えて福井まで行く。福井駅で次兄の兄嫁が、迎えに来てくれているはずだった。スンギは小さなボストンバック一つを持ち、並んでいる人の波に押されながら乗り込んだ。三等は自由席のようで、皆我先に入っていく。スンギも押されて転ばないように慌てて乗り込み、座席を確保した。
列車の中は人数の割に静かだった。不思議な気がした。朝鮮では、いつもおばさんたちがやかましく話していて、何も聞こえないくらい車内は大騒ぎになるからだ。
列車が駅を出ると、膝の上においた荷物をしっかり抱え直す。しばらくして、そっと辺りを見回した。乗客の見た目は同じなのに、なんだか朝鮮と違ってみえる。着ているものか、雰囲気なのかよくわからない。乗客達を見つめたあと、スンギは目をとじた。うとうとしていると、列車が急停車した振動で目を覚ました。急に心配になり、道順が書いてある手紙を取り出し行き方を確かめる。京都で乗り換え、そこからは一本だ。車内や駅の放送を聞き逃さないように、耳をそばだてていた。
しばらくして大きな駅に列車が止まった。人が大勢降りていく。車内放送はされたが良くわからなかった。スンギは隣に座っていた人に、日本語で書いた駅名を見せホームを指さした。その人が軽くうなずいたので、頭を下げ、慌てて列車を降りた。そのあともメモを見せながらなんとか乗り換え列車に乗った。後は着くだけだ。着いたら兄嫁が待っている。今度は背もたれにしっかり寄りかかり深く座席に腰掛けた。ほっとしていると、斜め前の席に座った同胞らしい男がこちらを向いていて、スンギが落ち着くのを待ち構えたように朝鮮語で話しかけて来た。
「おい、どこから来たんだ? 俺は大邱からだ。お前は?」
「東大邱だ」
「ああ、近くだな。お前も敦賀に行くのか?」
「そうだよ、兄貴の所に行く」
「ふ~ん、俺は姉貴が旦那と来てるからそこへいく。こっちに来たら飯がたらふく食えるって聞いたからさ。俺はテヒョク、宜しくな」
同年代に見えるこの男はスンギに笑って話しかけて来た。スンギは元々口下手なので、そのまま黙って頷くと、
「なんだよ。黙ってないで名前くらい教えろよ。これからだって向こうで一緒になると思うしさ」
「スンギ。一九だ」
「スンギか。俺も一九だ。同い年じゃないか。なんだかうれしいな。俺達仲良くなれそうだよな」
こっちが恥ずかしくなるほどの笑顔でテヒョクはスンギの手を握ってきた。面倒だなと内心思ったが、敦賀までは少し心細く思っていたところなので、生返事をして頭を下げた。列車に乗っている間中、テヒョクはずっと自分の話をしていた。田舎のこと、両親のこと、兄弟のこと、ここに来るまでの様子など、おかげでスンギは列車を降りるころにはテヒョクのほとんどをわかった気になった。
テヒョクの賑やかな話がそろそろ鬱陶しくなってきた頃、列車は敦賀に着いた。当然のようにテヒョクもスンギの後を着いて来る。列車を降りると、朝鮮にいた時より少し女らしくなった兄嫁がホームに立っていた。
「姉さん、元気だった? 兄貴達も元気?」
「スンギ、よく来たね。ええ、元気よ。アボジ(お父さん)やオモニ(お母さん)は変わりない?」
「うん、でも俺までこっちに出て来たから、オモニは寂しそうだったよ」
ひと通りお互いに言葉を交わすと、兄嫁はテヒョクの方を見て、スンギをまた見た。テヒョクのことを説明しようとすると先に本人が
「テヒョクと言います。スンギとは列車の中で知り合いました。俺も大邱の生まれです。こっちには姉さんと旦那がいるので頼ってきました。スンギと同い年の一九です」
そう言って勢いよく頭を下げた。
「そうなのね。お姉さん達はどの辺に住んでいるの?うちの近くかしら?」
「東洋紡の現場にいます」
「あら、じゃ一緒ね。なんて名前?」
「旦那がジョンチョル、姉がチジャです」
「チジャの弟なの?あらまあ。」
そう言うと兄嫁は突然笑い出した。テヒョクは兄嫁が笑うとすぐに、
「俺と同じでやかましいでしょ? うちはみんなおしゃべりだから。いつも姉さんがご迷惑をかけてすいません」
テヒョクがそう言い終わっても、まだ笑っている。真面目な兄嫁がこんなふうに笑うことにスンギは驚いた。でもすぐにテヒョクの電車の中での様子を思い出し、あれよりなのかと納得した。
「うふふ。でもチジャがいると明るくていいのよ」
テヒョクはニヤニヤしてしきりに頭をかいていた。
「じゃ、チジャのところにいくのね。うちの近くだから一緒にいきましょうよ」
兄嫁の言葉に、
「やったー。スンギに思い切って列車で声かけて良かったよ。うちの姉さんたらさ、一人でこれるでしょって。ほんとに冷たいよな。」
と言い、早速兄嫁と一緒に改札に向かった。スンギはその間ひとことも話さず、兄嫁とテヒョクのあとをついて行った。
ディスタンス#2へ続く