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ディスタンス #2【連載11−2】


 敦賀の駅は大邱に比べて都会で、釜山と比べても賑やかだった。今は戦時中なので皆防空頭巾をかぶっているが、スンギの田舎のように裸足で歩くものなど殆どいなかった。スンギは下関や京都は大きな都市だとわかっていたから、賑わいは当たり前だと思ったが、こんな田舎町でさえ、都会の釜山より賑わっているのが少し悔しい。楽しそうに話している兄嫁とテヒョクを見ながら、だんだん気が滅入った。向こうでできないことをしようと思ってきたんだ、勉強も金儲けもなんでもやってやる。若さと末っ子の我の強さがスンギに前を向かせていた。

 現場の近くある長屋のような家に着くと、長兄が次兄の家で一緒に待っていた。

「着いたのか。アボジとオモニは元気か? 」

「元気だよ。」

「こっちはどんどん悪くなってる。でもまあ仕事をしていれば飯は食える」

長兄と話し始めると、井戸の横にある共同の炊事場に、兄嫁が夕飯の支度をしに出て行った。

「お前のことは所長さんに話してあるからな。いつでも働けるぞ。ここの戦争も厳しくなって来たから、人手不足で俺たちみたいなのは重宝がられるんだ。お前もしっかり働いて頑張れよ」

そういうと長兄は湯呑みに入っていた酒を一気に口へ流し込んだ。ここは次兄と兄嫁が住んでいる。長兄は故郷に家族を残して一人できていたので同郷の知り合いと住んでいた。スンギは長兄とは十一離れているせいか、昔からあまり話をしたことはない。いつもただ黙って話を聞いて返事をするだけだった。

「たいしたものはなくてごめんなさいね。さあ食べて」

兄嫁が食事を運んできた。食卓の上には麦飯、キムチ、見たことのない奇妙な魚の料理が並んでいた。

「これはゲンゲというの。この辺では唐揚げにするみたいだけど、今は油もないから煮てあるよ。骨が多いけど美味しいからね。こっちは、バイ貝。このタレをつけてたべてみて。キムチと一緒に食べても美味しいのよ」

そういって兄嫁は煮物の皿をスンギのほうに向けた。黙って食べていると次兄が

「スンギ、お前は相変わらずだなあ。久しぶりなのに話はないのかよ」

と言い、小さくため息をついて兄嫁にお酒の催促をした。その後もスンギはただ食事をしていて、咀嚼する音だけが部屋に響いていた。

 翌日から兄達と一緒に東洋紡の工場建築の現場に入った。給金は安いが飯場の飯は良かった。白米は稀だがとにかく腹一杯に食べられる。ここの食事は夢のようだった。母や長兄の嫁の作る朝鮮の食べ慣れた料理とは違う日本の料理も珍しかった。味噌汁を飲むのも初めてなら、辛くない白菜漬も初めてだ。納豆や酢飯は美味しいとは思えないが、朝鮮より豊かな食事はスンギの気持ちを和ませた。現場には勿論テヒョクもきていた。スンギは大柄で無駄口をたたかなかったから、働き手としては評判が良かったし、テヒョクはテヒョクで持ち前の人懐っこさと明るさから、すぐに人気者になった。

「スンギ、お前この後どうする?」

テヒョクは仕事が終わるといつも、仲間と近くの飲み屋に通っていた。どうも気に入った女が飲み屋でできたみたいだ。たまにスンギも誘われて行ってみるが、口下手なスンギは上手く馴染めない。だからだんだんテヒョクに誘われてもいかなくなっていたし、テヒョクもあまり誘わなくなっていた。

「今日はいいかな。早く風呂にも入りたいし、疲れたよ」

そう言って汚れた手拭いで泥をはたき、その手拭いでそのまま汗を拭いた。

「スンギはいつもそう言って行かないよな。たまには息抜きしないと駄目だぜ。せっかく日本に来てるんだしさ」

そういうと、テヒョクは顔を洗って髪を撫でつけ、他所行きの服に着替え始めた。別に女が嫌いなわけじゃない。でも今はただこうやって体を動かして金を稼ぐことが面白かった。スンギは今、自分の力で生きている、それだけで充分楽しい。テヒョクが他の仲間と連れ立って出て行くのを見ていたら、着替え室はいつのまにかスンギ一人になってしまっていた。


 長兄から夜に話があると言われたのは、それから半年ほど立った頃だった。次兄夫婦の住まいに行くと、長兄はまだ来ておらず、次兄も帰ってなかった。兄嫁の声が共同炊事場から聞こえる。ここはほとんどが朝鮮からの出稼ぎ者ばかりだった。炊事場では朝鮮語が飛び交っていて、日本にいることを忘れてしまいそうだ。スンギは炊事場の女達の話す、どこでも変わらない噂話を音楽のように聞くとはなしに聞いていた。戦時中だというのに穏やかな空気が流れている。スンギは彼女達のしたたかさに、気持ちがざわついた。じきに次兄が帰ってきた。

「ああスンギ、兄貴は?」

「まだだよ。ハンギ兄貴、今日の話って何か知ってる?」

「う〜ん。俺もこの前ちらっと聞いただけだから、よくわからないんだよな」

そういうと、次兄は奥へ入って行った。次兄の着替えている音が聞こえていた。しばらくすると長兄がやってきた。

「遅くなったな。ちょっと人と会ってて。スンギもハンギも揃っているか」

りんご箱で出来た食卓の前に座り、長兄は兄嫁が出してきた白湯を一気に飲んだ。その声を聞いて次兄のハンギが部屋から出てきた。

「実はな、俺はここを離れて松本に行くつもりだ。松本は大邱と雰囲気が似ているところらしい。朝鮮人も沢山いるし。ここよりもっと暮らしやすいはずだ。金にもなる。一緒に行かないか」

長兄は一気に話すと、スンギと次兄の顔を見た。

「松本って一体どのあたりなんだ? ここからどのくらい?」

夫婦で来ている次兄のハンギは、やっと慣れたここの暮らしを捨てて松本に行くことに躊躇して、不安そうな声だった。

「列車で三時間くらいだと思う。ここより雪は少ない。魚は取れないが果物や山のものが豊富らしい。それにな、ここの工場も後少しで完成だ。そうなると俺達の仕事はない。次ぎの仕事を探さないと。その前に移って向こうで仕事をしたほうがいいんじゃないかと思ってな。今なら仕事はあると話をしてくれた人が言ってるんだ」

兄嫁は黙って、次兄の顔をじっとみていた。スンギはその話を聞いて、自分はきっと長兄についていかなくてはならないだろうと思った。

「兄貴、すぐに決めなくちゃいけないのかい?この前から子供が出来る前にそろそろ帰ろうと話していたんだ。」

「どこにいても俺たちみたいなのは一番に切り捨てられるぞ。なら俺たちが楽なほうへ行く方が良い。ここも空襲が激しくなってきてるじゃないか。ハンギ達は松本に行くつもりがないならここには残らず、帰ったほうがいいんじゃないか」

長兄はそういって今度は兄嫁の運んできた酒を受け取り飲んだ。スンギはその様子を見ながら、松本はどんなところだろうと思い巡らせた。松本への想いが頭の中をくるくる回っていた。兄たちの会話を黙って聞きながら、白湯をすすり白菜漬と焼いたスルメをしゃぶっていた。

「わかったよ、兄貴。二人でよく考えてみる。それでいい?」

「ああ、だが時間はそんなにないぞ。俺は来月には行く。向こうにはもう話はつけてある。早いに越したことは無い。みんな同じことを考えているはずだからな。スンギ、お前は俺と一緒にいくんだ、わかったな。現場には俺が話をする。お前はすぐに引っ越しの準備をしておけ」

長兄は立ち上がり、部屋を足早に出て行った。長兄が家から出ていくと次兄が

「スンギ、お前は良いのか。やっと慣れてきたところだろ。まぁしょうがないか。兄貴が行くって言ってるんだもんな。」

置いてあった酒をひといきに飲むと、酒の入っていた湯飲みをそのまま握りゆっくりとまわす。次兄が何か考えるときの癖だ。所帯を持っている次兄には従う理由は無いが、長兄の意見に逆らわないことが身にしみついている、それに兄弟一緒にいるのは心強い。次兄の湯飲みは、いつまでも手の中で回っていた。
ディスタンス#3に続く

前回ディスタンス#1


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