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ディスタンス#5【連載11−5】


翌日の朝早く、スンギは松本から長野行きの列車に乗っていた。長野の駅に着くと駅の周りはこの前の空襲で何もない、本当に何もなかった。そこら中に焼け焦げた臭いがする。着の身着のままで誰かを探している声がする。松本とあまりに違う光景に呆然とした。スンギは立ち止らず黙って進んだ。長野から富山までの切符をなんとか手に入れると急いで列車に乗り込んだ。

 富山に着くと長野より状況は酷かった。大きな空襲があったせいだ。二時間くらいのわずかな時間に180機近くの爆撃機が町中を掃射したらしい。駅からずっと向こうの建物まで見通せる。ところどころに建物の残骸と燃えてしまった大木が点在していた。夏の日差しと焼けた熱と焦げた匂いで、息をするのさえ苦しかった。スンギは街をみて、空襲警報や爆撃機の音がしないのを奇妙に感じたがその後、ああ戦争は終わったんだと改めて実感した。

 ここから叔父達の住んでいる高岡へ向かう。列車を乗り換えて座ると、日本にきてからのことが思いだされた。敦賀で初めて出来た友達、テヒョクはもういない。爆風で敗れた窓から入ってくる生暖かい風を感じ、それを思い切り体に吸い込む。それは毒の入った媚薬のようにスンギの体を巡っていき、すぐに体中がドキドキと熱くなった。それに負けないように、北陸の湿度のある暑さでくぐもった空と雲を、薄汚れた車窓からずっと見つめた。

 高岡の駅の改札前に叔母と男の子二人が待っていた。

「ああ、スンギや。ご苦労だったね。なんともなかったかい。これは長男のジョンチョルだよ。九歳だ。こっちはジョンフン六歳だよ。ほらおまえ達、挨拶をしな」

叔母はそう言って子供のほうに手を振り促すと大きいほうの子が黙って頭を下げた。

「お世話になります。変わりないですか?」

「まだこっちにきてそんなにたってないからねぇ。わからないこともあるしいろいろ大変さ。でもまあ、なんとかやっていけそうな目処がたってきたよ。ご覧の通り焼け野原だ。あたしらの仕事はいくらでもあるよ」

そういうと叔母は駅を出てバラックの闇市のほうへ歩いて行った。二人の子供は叔母のそばを黙って歩いていた。二人とは10歳以上離れているしスンギが怖いようで近づきもしない。子供の相手などしたこともないスンギも、何も話さず叔母達のあとをついて行った。闇市を抜けるとどこも同じような瓦礫のくずだらけの道だ。だが富山駅のようななにもかもが焼き払われた悲惨さはない。ところどころ戦禍の傷跡は見られるが、どこかのんびりしていた。ほんの少し離れたあの町とこの町の違いは、自分とテヒョクの違いと同じくらい変わらないとスンギは思った。

 30分近く歩いただろうか。松本よりも蒸し暑いなかを歩いていると、じきに汗が止まらなくなる。叔母は何も話さず、時折子ども達に注意をしては歩いていた。さらに小さな路地に入ると、似たような町屋が並んでいた。道幅は狭いがまっすぐに続いていた。町屋の外れには川のようなものがあり、レンガでできた変わった作りの煙突が見えた。はじめてみる煙突をスンギが見上げていると、叔母が、

「あれはキューポラといって南部鋳造所のものだよ。鋳物を溶かす煙突さ。だからこの辺一帯は鋳物作りが盛んで、前は鋳物師が沢山住んでいたんだ」

と言った。川と思ったのは水路で、北前船のためのものらしい。北前船とは大阪と北海道を日本海回りで商品を買いながら回っていた商船のことで、高岡もその寄港地のひとつだった。だからこの辺の町屋の裏は水路と繋がっていると後で地元のやつに聞いた。そのときはただ、変わった作りの家があるなと思ったくらいだった。

 その町屋をさらに行ったところに叔父の住んでいる家があった。敦賀の長屋と似たりよったりの作りで一軒家だった。

「ほらここだ。隣もその隣もうちで働いている朝鮮人が住んでる。うちの飯場の寮みたいなもんだ。スンギ、あんたは私たちと一緒のこの家に住むんだよ。それでいいだろう?ジョンチョルとジョンフンの部屋で一緒に寝な。娘は、まだ小さいから私たちと寝てるんだ」

玄関を入ると賑やかな足音が聞こえてきた。

「オンマ(お母さん)、おかえり」

パタパタと音がして小さな女の子が叔母の足下に抱きついた。女の子は叔母の後ろに隠れてこっちを覗いていた。

「ただいま、ヨンジャ。スンギオッパ(兄さん)だよ。挨拶しな」

「こんちは、スンギオッパ」

と叔母に隠れながらこちらに挨拶した。

「こんにちは。ヨンジャ、これからよろしくな」

怖がられないように優しく話したつもりだったがそれでも後ずさりされた。

「さあ、スンギ。アジェに挨拶しておいで。奥の部屋にいるよ。あんたを待ってる。私は昼の用意をしようかね」

叔母はヨンジャをつれて台所になっている玄関続きの土間のほうへ歩いていった。この家はいままで住んでいたところより広いが、六人で住むとなると狭いようだ。上手くやっていけるだろうか。叔母の後ろ姿を見ながら思った。

 食卓のある土間から一段上がったところにある部屋の奥で、叔父は座って煙草を吸っていた。スンギは叔父の向かいに正座して、

「アジェ、これからお世話になります」

「おおスンギ、よく来たな。兄さん達は無事に船に乗ったのか。俺の子供達には会ったな。まだみんな小さいだろう。だから宜しく頼むな。当分は俺の仕事を手伝ってくれ。それで良いだろう?」

「はい、宜しくお願いします。」

「朝鮮も日本もこれから変わるぞ。落ち着いたらおまえの好きにすればいいさ。でもほどほどにな。うちには小さな子どももいるし、俺たちが困る。そうだ、まずこっちの総連(朝鮮総連)の青年部に顔合わせをしよう。あそこにも仕事はあるみたいだから、いろいろ聞いてみるといい。お前と同じようなやつが沢山いる。今日のところは飯を食べてゆっくり休むと良い。おっ、雨が降ってきたのか?」

叔父はそう言って立ち上がると、急に降ってきた雨が家に入ってこないように少し窓を閉めた。窓をたたく雨の音で一瞬家の中が涼しく感じたが、すぐにもっと蒸し暑くなった。とりあえず挨拶が済んで、ほっとしたが一人になると心細く感じた。

 翌日叔父はスンギを近くの朝鮮総連青年部に連れていった。ここは高岡にいる同胞がほとんど参加している。総連は今と違って当時は在日朝鮮人の互助会的な意味合いが強いものだった。スンギの人見知りは昔に比べて大分良くなってきていたが、まだまだ周りとなじめなかった。それでも空襲のない日々がスンギを明るくさせていった。スンギも前向きになり根拠のない自信に溢れ、何でもやれる気がした。進駐軍はここでも大きな顔をきかしていた。高岡にも沢山の進駐軍がいた。街は愚連隊やヤクザが底辺を取り仕切っていた。復員してきた日本人が増えてくると、朝鮮人はまともな職に就くのがますます難しくなった。血の気の多い若者は、必然的にヤクザや愚連隊になっていくしかなかった。同胞のやくざや愚連隊は、朝鮮総連を大事にしていたので、総連は徐々に力を大きくしていった。スンギは見た目の怖さや無口が重宝がられ、次第に組織の中で重宝されるようになった。朝鮮総連青年部は役所や警察でも一目おかれる存在になり、闇米の売買も容認されていた。その利益は莫大だったので、金と一緒に権力もついてきた。スンギは短期間で青年部長になり、大きな力を持つようになった。そしていつのまにか怖い物など何もないと思う不遜な男になっていった。表の社会にも裏の社会にも顔が効いた。お互いの利益を享受するために、都合をつけ合うのだから、その関係は強固だった。スンギは自分の力にしだいに酔っていった。

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ディスタンス#6につづく

前号ディスタンス#4はこちら

https://note.com/tami622/n/n7dd769aecce4


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