無駄と盲目
社会勉強に行ってきた。
名刺交換のシーンが面白かった。
世間は、いらなくて本当に無駄な動作で溢れているな、と私は思うが、それは私が世間(社会)から一歩離れたというか、そこではない場所にいるから、そんなことを思うのかもしれない。世間の人間にも、私(たち)が必要としていることが全く無駄なことに思えるのかもしれない。人間は自分が属している環境や尊敬する人間たちとの関係のなかでは、すごく盲目になっているのかもしれない。(かもしれないを連発したのは、無意識、必然。)
そんな中客としての自分を保ちたいと思っているのは私の嫌いな私で、意識を持った方の私はずっと盲目な主観でいたいと思っている。
私の中では結局どちらも盲目だということに落ち着く。
自分の盲目さと無知を自覚することで外の世界を肯定することと、他人にいいねと言われないと自分を保てない心は、繋がっているでしょうか。
他人は 誰でもいい場合がある。
全ての前提になっているものを探そうとする癖がある。
以下盲目
ルックバックの感想の大半は全く同じことが書かれている。驚く。
昔の創作物に現代の創作物が勝てないと感じるのは、当たり前だと思うのだ。優劣をつけるべきではない理由がある。
過去の常識は打破するべき存在とされることもある。
外に出るときは人の目を気にして、他人が自分や自分の好きなものに対してどんなことを思っているのか常に想像しながら生きているね。
でも、そのわりに誰からも好かれる自分を演じるのは苦手だね。
学校で作品をプリントしてきた。ファイルとかを持ってくるのを忘れたので、リュックの背中のポケットに直接入れている。しわにならないか不安だ。
人生の保証人がほしい
自分の好きなものは、ないしょにしようかな〜
好きなものを素直に正直に好きと周りに公言できるようになるのはいつかな
今のところ自分にもないしょということになっている
困る
親は消費者になるなと言う。なぜ?私は消費者としての幸せも好きだ。そこに幸せはある。幸せがなければ私は生産(?)を目指していなかったと言うこともできるかもしれないが、私は他人の幸せのために生きていない。好きな人の幸せのために生きれたらいいと思う。
道を歩くとき手綱を握ると、無敵になる。
もちろん想像だがいつか想像しなくても良くなるときが来てほしい。来させる。
オシッコ!と言っても、意外と許してくれるかもしれないと思った
トンネルが大嫌い