中身は涼しい内容にしたい
たいていいつもはじめに別の話題を書いてる気がするんだけど、今回も書く
ほんとはそんなつもりではなくて、どっちかってーと話題が逸れちゃうんだ〜
授業のレポート書かなきゃいけないのに、noteに来てしまった
他人に侵食されるのは怖い。
それは、他人に自分の全てを知られることや、自分の全てを分られることじゃない。他人が全てを知らせて、分られようとしてくることだ。
自分の中で他人が完成されること。それを侵食と表現したい。
どんどん相手のことが分かってきて、つまり自分の中にもう一人の相手が形成されてきて、
その姿を裏切られると辛いし、ない像(内臓)に縛られている感覚がある。
書きたいことがなくなったらどうしようと思ったけど、なくなったらそれは死だから怖くないです
なくなってから死にたいです
私はまだ書きたいことがないと言葉を選べないと思っているのかと思う
言葉が先に出てくることはなさそう
線が先に出てくることはよくある
自分で描いた像をあとから目で見るかんじ
最初から頭の中に居る像もあるけど、それは描くべきものとしてそこに居る
どうしてかというと、描かないと見れないから
言葉は目でみるものじゃないから、頭の中に居るだけでも役割を果たすことができる
それがいなくなった時に不安になる
図像はいなくなってもいい
いつでも呼び出せるから
こんなに違いを述べておいて、図像と文字(言葉)の区別がとても難しいなあと思っている。
文字が組み合わさって、共通を装った概念がくっついたときに言葉になるのだと思うけれど、図像はどうか。
線や色が組み合わさったとき、頭(こころ)に現れる概念は共通を装っているだろうか。
一人一人の中にある固有を装ったさまざまな概念が、その図と結びつくのじゃなかろうか。
共通を装った概念は、何によって得られるか。それは、教育とか教育とかだと思うが、言葉に対してそれを得るのは全く理にかなっていると思ういっポうで、映画とか、絵画とか、図像の話になると止めたくなる。
なぜか!絵画は、文字でないから(それはちょっと強引ま〜?)
固有を装った概念が形成されるときは、そこに目的などない。であるべき。結果はあくまで予想の範疇。
(最後には)経験そのものに目的はない
優しさと悪意がある
どう思いますか
暑すぎて狂って、お腹が空いてるのかもう食べたくないのかわからず、とりあえず食べる
肉と野菜と粉と塩と砂糖と水