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つなぐのは水
今現在、農業の「方法」として日本では
農協が主体になって化学肥料や農薬の使用量、使うタイミングを指導して、できたもののうち「形がパッケージの規格に合うもの」を青果市場を通じて小売店に並ぶ「慣行農法」といわれるやり方
様々な理論(ざっくり過ぎてごめんなさいm(_ _)m)に則って「土作り」を行い農薬や除草剤などの化学物質を用いない「有機農業」
そして、農薬、除草剤はもとより、肥料も使わない「自然栽培」や「自然農法」の
おおまかに3つの方法があります。
どれが正しい、どれが安全、どれが優れている…ということではなく、どれも「需要」があるから存在するのだと思います。そもそも、視点が違えば正解や優劣など簡単にひっくり返るのですから、「虫や土のついていないつるんとした箱に収まりやすい整った形のものがいいのだ」という需要がある限り、クリスマスにいちごが食べたいという需要がある限り、需要に合った作物づくりは行われます。それもいわば『自然』。
慣行農法で青果向けに作っておられる専業農家さんの話も聞いたし、有機農業教室でも学んだし、MOAの認定圃場で自然農法についても教わった。
市場には慣行農法で作られた野菜の需要があることをとやかく言いませんが、それはわたしのニーズとは一致しないので、自分の畑で自分が食べるものを作るときに採用するわけはありません。だから、有機農業や自然農法を知りたかったのです。
有機農業や自然農法では「土」を大切にします。
「森や野山のように『土』が健康であれば、野菜だって健康に育つ」と。
健康な土には微生物がたくさんいて、表面に積もった枯れ葉や枯れ草を分解し、養分として草木に還っていく。収穫物を持ち出すぶん、土に還らない元素を補わなければ養分が不足して病気にかかったり育ちが悪くなるから「有機肥料」を用いる…というのが「有機農業」(ざっくり過ぎてごめんなさい)。
自然農法では肥料を使いません。畝は立てますが種まきや苗の定植のたびに耕すことはしません。畑にはたいてい硬盤層やグライ層と呼ばれる粘土質の層ができちゃっていて(原因は諸説あり)、これが大地のエナジーが植物に届くのを妨げるため「どうやってほぐすか」をあれこれ考えます。この「あれこれ」にみなさん工夫を凝らしておられて微生物を培養した水を散布したりなどなさるわけです。その効果を目の当たりにして驚嘆したこともありますが「なんで?」というところがいまひとつ腑に落ちるところまで行きませんでした。
が!
三浦伸章さんの「ねじねじ」というものを畑に埋めると、硬盤層まではどうか未確認ですが、土の手触りは明らかに変わるのを経験していろいろとお話を伺ってみたくなったのです。
三浦伸章さんとの出会いは十数年前に遡ります。ホメオパシーの学校の2年生だったとき、学校に「自然農法普及員」をお招きして「自然農法」について聴く講演会が開かれました。ふたりで来られたのですが終始横でニコニコしているだけでお話はされなかった三浦さんがなんだか印象に残っていたのです。
その後いろいろあって、今のパートナーの三浦と出会い、311があって和歌山へ引っ越し、MOAの認定圃場で勉強させてもらう中で誘われた講演会が、三浦伸章さんと田中佳先生のコラボ講演会でした。そのときに初めて10年近く前に代々木上原の学校でお目にかかった普及員の三浦さんが連れ合いの従兄弟だと知りました。びっくり。従兄弟の再会もこのときが40数年ぶり。びっくり。
その後、縁あって兵庫県の佐用町に引っ越して、畑付きの古民家に住み始め、畑で自家用の野菜づくりをはじめました。直前まで畑を使っておられた慣行栽培の専業農家さんは、化学肥料をどっさり、牛糞もどっさり、農薬や石灰などもどっさり使われる方で、とにかくセンチュウとの戦い。地温が下がるまでアブラナ科は種まきできない、マメ科もナス科もアブラムシに覆い尽くされる、ウリ科はうどんこ病にやられまくる…できるのはハーブ類だけという有り様だし、GWにだって遅霜が降りるところで和歌山のやり方が通用するわけもなく…とにかく植える、とりあえずできたものを食べるでしのいでおりました。
そんなこんなもあって有機農業教室で学ぶことにして、「良い土」の3条件やそうなるための方法、畝立てと肥料の使い方などを勉強して、どうにかセンチュウと病気との戦いには全敗することはなくなったものの、やっぱり腑に落ちない部分は残りました。
でもね。
先月末、ねじねじを畑に埋めるために穴を掘ったら、
硬盤層が消えてた。これは2年間
「保田ぼかし」で入れていた微生物たちの働きが大きいと思う。
微生物の働きは「ある」として、
ニワトリを飼い始めたらキウイが摘果しないのに大粒のがたわわに実るようになったのはなんで? 虫をついばむために地表をほじくるから? 糞をするから? でも有機農業では未発酵のものは入れちゃだめなんだよね?
いったい何が腑に落ちないかといえば、
・土ってなに?
・養分、肥料分ってなに?
・養分、肥料分って植物になにかが届けるの?
それとも植物自身が吸い上げてるの?
・土壌中の微生物って補給しないとだめなの?
理論を理解するために覚えて実践してみてもわからないものはわからない。
「畑」というフレーム、「畝(うね)」という枠組みでみたときに
その「部分」が理論に沿った理想的なものであっても、
実験室のペトリ皿のような独立した空間ではなく
地球の大地と繋がっている一部なのだから、
そこに「今あるもの」や「何を入れるか」よりも
「どんなリズムで流れているか」を見る方が理にかなっているのだ。
何が?
水。マイナスイオン、水素イオンなどと言われるもの。
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滝や渓流にはマイナスイオンが溢れていて「癒やし効果」がある。
という文脈でおなじみの「マイナスイオン」。
水分子があつまった水のクラスターが
激しい流れでぶつかり合って水素イオンが離れる(振動が起きる)。
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遊離した水素イオンが身体に当たるとといっても、水しぶきが身体にかかるのとはちがってニュートンのゆりかごのように近くにあるイオンに衝突した衝撃が伝わって身体の中のマイナスイオンも移動する…というような
水の惑星の大気圏内には濃淡の差こそあれ「ある」のです。
見えるものの「ある」「なし」はもちろん大切なことではありますが
それ以上に
見えないものの「流れ」と「リズム」と「つながり」に
感覚を向けて開いてみることが大切なようなのです(まだ理解が完全ではない)。
水やイオンの流れは特定の圃場で完結しているわけもなく
山、川、空、と繋がっていて
常に必要なものを運んできてくれている。
わたしたちの身体も個人で完結しているわけではなく
周辺の環境と呼吸や飲食といった活動を通じて繋がっていて
必要を満たし、浄化もされている。
そう、「流れ」と「リズム」こそが
必要を満たし、浄化を助けてくれるのである(代謝)。
護岸工事をした川の浄化力が落ちるのはリズムを失うからだし
山肌が土砂崩れを起こすのは流れが滞ったり、リズムを失ったからだ。
「流れとリズム」を相似形という視点で見ると
それが強く現れるのは平べったくだだっ広いところではなく
ある程度狭い谷やトンネルorチューブ状のところだということがわかる。
そして自然にできる谷やトンネルは直線ではなく曲がっている。
害になるもの、入れれば過剰になる可能性があるものは入れないほうがいい
という基本原則は別として
畑に、土に「何を入れるか(入れてはならないか)」は大した問題ではなく
「流れとリズム」をいかに作りたいものに優位に利用するか
を40数年かけて導き出した方法が「ガッテン農法」なのだと
いまのところ理解しています。
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これは先月、岐阜の白川町で「ねじねじ」を作っているときに
ふと見上げた空にDNAのらせん構造のような「ねじねじ」が浮かんでいたもの。
テレパシーや虫の知らせが科学的にどういう仕組で起きるのか
まだ未解明ではありますが、
水分子が持つちいさなつぶつぶがぴょーんと飛んでいくのではなく
振動が伝わるような伝わり方(ニュートンのゆりかご的な)で
瞬時に離れたところに到達するのかと思います。
「ねじねじ」に限らず、三浦伸章さんの話はかなりぶっ飛んでいますが、
論理的に詰めたいのであればカタカムナで有名な楢崎皐月先生の「静電三法」がお勧め。
高っ!
ねじねじ話は
「よくわかんないけど面白そう!」という方にも
「理論はべつにいいのよ」という方にも
好奇心さえあれば充分受け入れられて実践も可能ではありますが
決してオカルトでも疑似科学でもないことを強調しておきたいと思います。
千島学説で言われた「小腸造血説」が数年前に間違いではなかったことが数年前にわかったように、科学的に「正しい」と言われていることは「いまのところ」という但し書き抜きでは正確さを欠くのです。「〇〇学」というフレームはどんどん細分化されていて、まるで竹筒を通して世界を見ているような狭い範囲の正しさが乱立するようになっていますが、それらのフレームは実は存在しません。わたしたちの左脳が生み出した左脳ワールドにだけ存在します。フレーム無しに世界を「感じる」右脳とのバランスが取れたら、世界はきっと今より豊かに見えるはずだし、実際そうなんだと思います。国境も人種もジェンダーも右脳ワールドには無い。
そんなねじねじ話をより科学的に、そして人体につなげて話をしてくださる方の講演会も予定しておりますのでお楽しみに〜。8月です。
おまけ
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気になっていたので「似てるっていわれませんか?」と訊ねたら
「よく言われる」とのこと。
理論がぶっ飛んでいるので論理的に聞こえませんが、実はとても論理的。
だから合理的。
部活の早朝練習のような草取り地獄からついに開放されるのか!!!?