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え?と思ったこと
最近読んで面白かった本です。
あらゆる依存症の根底にある価値観としての「男尊女卑」について書かれた本です。依存症だけじゃないけど、読んで良かった。
で、例のタレントさんの引退宣言なんですが「え?」と思った人も少なくないのではなかろうか。
あれだけテレビに出ていた人が(無いから見てないけど露出の多さはそれでも伝わってくるのです)、なんの説明もせずに幕引きを図ろうとしている。いいのかな。
わたしは、彼個人の問題として終わらせちゃいけないと思うのです。だから彼個人を吊し上げるのもなんか違うと思っていて、でも、共有すべき問題はしっかり共有して、掘り下げて、誰もが安心して、自信をもって、自由に選べる世の中になるように変えていったほうたいいんじゃないかな。
というのも、中居氏だけではなく、岸和田市長の永野氏、元大阪地方検察庁検事正の北川氏、痴漢や不同意性交などの性犯罪者、買春者…などなど、性的な加害行為が行われることと「しくみ」化された「男尊女卑」が無関係だとは思えないから。
「ボーイフレンドやパートナーからの性的なタッチや眼差しにストレスを感じる」という話はあらゆる年代の人から聞きます。いつもそれがイヤでストレスを感じるのではなく、嬉しいときもあれば、軽くいなせるときもあるし、キーっと起こりたくなるときもある、と。
これ、女性は性ホルモンの波があるから「嬉しいとき」があるのは普通なんですね。でも、その気が無いときは、例えば犬だったら情け容赦無く歯を剥いて唸ったり噛みついたりする「ホルモンの状態」。
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これは女性も男性も知っておいたほうがいい。「カモーン♡」なときと、そうでないときがはっきりしている人、曖昧な人、概ねイヤな人、たいていOKな人、いろんな人がいますが、排卵周期というのがあるので身体の状態はそうなんです。
で、問題になるのは「カモーン♡」じゃないとき。「やめて」と言われて「すんません」とすっこんでくれるならいいのですが、しつこくされると「キーッ!」と怒り出す。女性は自分でもどうにもならなくて罪悪感を感じるし、男性のほうは「こないだはいいって言ったじゃん…」と。
「性的同意」というのは、その都度とらなきゃいけないことで、それは「いつでもお茶を飲みたいわけではない」のと同じことなのですが、なかなかそれが定着しない。
どうして「お茶いれるけど飲む?」のように定着しないんだろう、と考えたときに、「男尊女卑依存」を考慮するとなんとなくその景色が見えてきます。
「女性を性的に消費する」
文字にするとなんともショッキングな感じがしますが、この構造というか文化というか、習わしというか、慣習なのか…あまりにも日常的な光景が日本にはある。無いとは言わせない。
むやみに胸や太もものむっちり感を強調した女性のイラストが溢れていて、自衛隊のオフィシャル雑誌にすら…
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右の「おまねこ」はオス猫、左の「ハム・チュンチュン」はオスのハムスターだそうです。設定がそうだとして、違和感を禁じえません。でもこれに不快感を示すと「クソフェミ」と罵られます。
そうまでして、女性性を消費したいのか…と暗澹たる気持ちになるのです。
80年代に「おニャン子クラブ」というアイドルグループが人気を博しました。「セーラー服を脱がさないで」という歌では「友だちより早くエッチをしたいけど」と歌わせられていました。高校生の女の子を性的に堂々と消費してよくなった瞬間でした。
痴漢行為をエンタメとして扱う週刊誌も普通に売られていました。こちらに詳細があるのでご参考まで。
痴漢のような、知らない人からの性被害だけではなく、学校や職場や家庭でも起きるのが「女性を性的に消費する」振る舞い。セクハラが「やっちゃいけないこと」「人権侵害」と知られる前は、女性の先輩が後輩に「あれくらいで目くじら立てちゃダメ、大人の女は笑っていなさないと…」というような指導もされていました。少なくとも昭和の残り香が漂っていた平成の初期の頃まではそんなだったんです。そして、今でもお酒の席で偉い男性の隣に座らせられたり、お酌をさせられたり…は残っている会社もあると聞き及びます。いまだに!と腸が煮えくり返りますが、させている方はなんの疑問もなく、させられている側も「これが社会か…」と諦め、そのうち過剰適応していき、「女性を性的に消費する」文化は脈々と受け継がれてゆくのです。
「鬼滅の刃 遊郭編」のときに、子どもも見るアニメで性搾取が行われた遊郭を舞台にするとは!と喧々諤々の議論がかわされましたが、最終的にはその「悲惨さ」まで描かれていて「まぁよし」となりはしましたが、NHKの大河ドラマ「べらぼう」はどうでしょう? 主人公は遊女ではなく、吉原をネタとしてコンテンツを編み出した蔦屋重三郎ではありますが、吉原の実態についてきらびやかな側面を中心に描いてはいませんかね? 形式上は借金を返せば自由の身になれたから人身売買ではない…ということになっていますが、満年齢で16歳くらいで客をとりはじめたとしても27〜8才にならなきゃ返済できない仕組みで、しかも平均21才くらいで死んでたというのはどういうことでしょう。文化やファッションの発信地だったという側面は確かにあるのかもしれませんが、それはあくまでも「上澄み」だけで、「女性が性的に消費されていたところ」なのは事実です。しかも国を上げて組織的に、です。これは第二次世界大戦後のRAAまで続きました。進駐軍が一般女性をレイプしないように性接待の場を「国が」設けたのです。
いちおう、日本には「売春禁止法」があって、違法という位置づけではありますが、風営法として知られる法律はザルもいいところで、女性をいかに合法的に性的に消費するか合戦は日々繰り広げられていて、それは世界中に知られています。
とにかく! 「女性、子どもを害悪から守ろう」という気概は感じられず、そのかわり「いかに狡猾に消費するか」を「表現の自由」や「自己責任」「自己決定権」「職業の自由」を盾に、日々努力を重ねているようにしか見えません。
そんな「空気」が支配する日本で、
「女性を性的に消費する」のは「人権侵害」と
明確に認識しておくのはとても大変なことだと感じます。
街を歩けば…、電車に乗れば…、想像つきますよね。
わたしたち日本在住の民はほぼすべからく「女性を性的に消費する文化」に感覚?脳?が汚染されていると言ってもいいくらい。
「コカインは排出できるけど、ポルノは排出できない」と言ったのは、ペンシルベニア大学認知療法センターで『性的トラウマ・精神病理学プログラム』(STAP)の共同責任者を務めるメアリー・アン・レイデン博士。
「物質」ならば生理機能で自動的に解毒されるし排出もできるけど、「情報」となると意識的に修正しなければその影響は長く続くのです。
「女性を性的に消費する(してもよい)」とする価値観に基づく「情報」がわんさか巷にあふれるニッポンでは、意識的に修正し続けなければならないような負荷がかかります。だれがそれをあえて好んでやり続けられるでしょう。だから、わたしも含め、ほぼすべての日本に住まう人は「女性を性的に消費する」文化にそれなりに適応しちゃっているんだろうと思うのです。嫌だけど。
というような「現状」を踏まえて、
「このままの状況を次世代にそのまんま手渡すかどうか」
をわたしたちが決める段階に来ていると思うのです。
わたしは嫌だな。
だから、岸和田市長のことも、元検事北川氏のことも、中居氏のことも、「女性を性的に消費する」ことを許容してきた「しくみ」や「空気・文化」ごと総括して、さよならする必要があると考えます。
個人がやり玉に上がっていますが、「しくみ」「空気・文化」という誰もが何らかの形で片棒を担いできたものを解体しなくては、別な人が被害を受け、槍玉に上がるのを減らせないと思います。
被害届が受理されにくいのも気に入らない、
受理されたとしても、裁判では被害者が被害を証明しなくちゃいけないのも気に入らない、
…というような司法上のダメなところも変えてほしいし、
人権教育としての性教育も進めてほしいし、
多くの人が認識を変える必要性に迫られている(何がセカンドレイプにあたるのか、とか)と思います。
話を戻します。
というわけで、個人に起きているミクロなことも、実は地続きで全体に起きている、起きき続けていたこと、今も起き続けていることと、決して無関係ではありません。
パートナーの間で尊重されない「イヤ」は、日本の文化・空気に浸透している「女性を性的に消費する」ことと無関係じゃない。
あのときはOKだったのに…といわれて「そうよね、わたしも一貫性がなくて…」と罪悪感を感じるより、あのOKは本当に自分の意思だったのか、それとも「女性を性的に消費する空気」に知らないうちに適応したがゆえだったのかを考えてみてほしい。
あのときはOKだったのに…と理不尽に思うなら、女性の性的な行動にはそもそもムラがあることを誰にも教わらなかったことを顧み、新たに学び、その都度同意を確認する必要があることを知り、行動につなげ、「女性を性的に消費する」のは「アタリマエのこと」ではなく「人道に反することだ」と理解してほしい。
尊重されなくて嫌な思いをした側も、尊重できなくて怒らせちゃった側も認識して「もうやめよう」と思わない限り
「紅茶いれるけど飲む?」と同じトーンで「エッチな気分で触っていい?」と確認する手続きを取ろうとはならないと思うのです。
「同意」は求めるものではなく、YesかNoかを確認するもの。
「NO」は「あなたのことがNO」なのではなく
「いまはいらない」「いまはいや」なのです。
だれもがだれにたいしても行儀よくふるまうには
わたしはわたしを大切にします
あなたはあなたを大切にします
わたしはあなたを大切にします
あなたはわたしを大切にします という関係性があってこそ。
わたしがわたしを大切にできていない状態で、あなたを大切にするのは、身を削られることなのです。
「女性を性的に消費する」のは「いけないこと」という認識が広く共有されますように。
ほかにもいろいろあるけれど…。