ストーリーの完全性とキャラクターの解像度のトレードオフ性について|ノベルゲーム感想
最近色んな作品を横断して妄察(考察よりも妄想よりな思考)するのが好きなんですが、ふと、ストーリーが主な作品とキャラクターが主の作品の違いについて思ったことがあるので書きます。
注意
私の思想源泉垂れ流しです。
R18ゲームについての感想が含まれます。
ある程度ネタバレは避けます。
裏表のあるキャラクターが伝えたいこと
タイトルにある内容について考え出したのは、NOeSIS-嘘を吐いた記憶の物語-を8年くらいぶりにプレイし直したのがキッカケ
ゲーム説明にある通り、NOeSIS はヒロインがもれなくヤンデレだったり、普通じゃなかったりするお話なんだけど、改めてプレイすると色々と考えさせられるテキストが一杯でびっくりしたという……
んで、その中に、人の多面性というか裏表性みたいなものがある
詳しくはゲームをやってもらうとして(ネタバレになるので)
NOeSIS のヒロインって、ヤンデレだけど、ヤンデレなだけで済まないんですよね。主人公に対しての愛が強いだけで、別に主人公との恋愛にすべてを捧げているわけでもなければ、主人公の全部を欲しているわけでもない。
NOeSIS のかなり序盤の方に妹の憂姫が言った言葉
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結局、人が人を見るとき、多くの場合は1側面だけを見る
裏側は想像するしかない
ふとした瞬間、別の側面を見て面食らうかもしれない
なにはともあれ、1側面しかない人物なんてありえないし、全部の側面を知れるなんてもっとありえない
一方で、ノベルゲームの二次元美少女は基本的にこっちを向いて話すわけです。立ち絵に裏側はないですからね
それに、ヒロインともなれば、何を思っているのかが描かれないままでいるというのも、あまりない
ヤンデレって簡単に言うけど、主人公が好きすぎてそれ以外どうでもいいなんて、かなり破綻している。ヤンデレだって生活を送っていて、好きな食べ物があって、今日の夕飯のことを考えたりする。
化物語シリーズ『恋物語』のクライマックスで、貝木泥舟が千石撫子に、「阿良々木以外は全部ゴミか?」と言ったみたいに、主人公最上位のヒロインであっても、恋だけをして生きるなんてできない。
その一方で、じゃあ、ヤンデレヒロインの"そんな"ヤンデレじゃない部分を描写すれば、そんな描写が多くなれば、相対的にヤンデレ要素は薄れていく
だんだんキャラクターから人間っぽく
いろんな側面を描写し続ければ、リアリティは出るが、キャラクターっぽさは薄れていく
人は色んな側面を持ってるし、時には主人公と関係を続けるために、自分を取り繕うこともある。記憶をなかったことにすることも
NOeSIS-嘘を吐いた記憶の物語-のヒロインたちって、主人公のことがめちゃくちゃ好きなんだけど、キャラクター上主人公がいなくても成立するような、力強さを感じるんですよね。
ただの属性だけでは説明しきれない魅力があります。
キャラクターが売りのコンテンツ
まだ話は終わりません。
最近ブルアカの本編が更新されましたね。そっちの感想については、また別に書くとして。
ブルアカのメインストーリーVol.5 第1章「いつかの芽吹きを待ち侘びて」で、「人が取り繕うことは普通のこと」という言葉が出てきました。だから、それは嘘じゃないし、また仲直りすればいいと。それに対して、敵側が最悪な物語と否定してきます。
普通に読んでいると、まぁ、敵側に感情移入することはないんですが、「最悪な物語」というフレーズが少し引っかかりました。
キャラに取り繕われることを「最悪な物語」とよんでみる
キャラクターの解像度を上げるほどに、キャラクターは第一印象にある属性に収まらない、複雑なものへと変わっていく
場合によってはキャラクターが、勝手に動き出す
よく制御された完璧なプロットが外れて、本筋に関係ないエピソードが生えたり、主題がブレたり……
ソシャゲなんてその最たるもので、キャラクターをたくさん出さないといけない、キャラクターを売らないといけない都合上、文学小説ばりの、「ある主題」のためだけのストーリー展開は難しくなる
VTuber だって、キャラから入って、設定破りなリアリティに沼る
素晴らしき日々とサクラノシリーズの完成度について思うこと
私の大好きな作品に、SCA自氏のすば日々とサクラノシリーズがあります。
以前からずっと、すば日々の完成度が異様に高いのに比べて、サクラノ詩、サクラノ刻と続くにつれて完成度が下がっているんじゃないかと感じました
ここでいう完成度っていうのは、ストーリーの完全度と言っても良くて、伏線回収が綺麗かとか、クライマックスのためにどれだけ計算ずくで物語が展開するかとか、そういう肌感です
作品の出来とか面白さとは別に考えてください
それで、このすば日々とサクラノシリーズの物語完全度の差が何からくるのか、今までつらつら考えてたことで、一つの答えを得ました
ストーリーの完全性とキャラクターの解像度の間にはトレードオフ性があるのではないか
という仮説です
それこそ、すば日々はテーマとして、「独我論的な自我」についてというのがあります。
一人称的な、特定の視点から描かれる物語では、他のキャラクターや事件はクライマックスに向けての伏線でしかありません。
他のキャラクターが主人公の知り得ない場所で何をやっていようが、あまり関係ないし、主人公は地の文でダラダラと自分語りをします。
それこそ、信頼できない語り手という問題はあれど、主題は嘘を付きません
一方で、サクラノシリーズは他者との関わりに焦点が移動しています。
自分の中で自分だけが納得できれば良かった世界観ではなくて、他者と自分の価値観の違い、統一出来ない矛盾が発生します
主人公と世界との関わりだけ考えればよかったのが
主人公とキャラAとキャラBと……と関係が複雑になる
そんな世界で上手く狙った結末に進むためには、少々無茶な展開が入らないといけないこともある。便利な舞台装置とか、物語を進めるためだけのキャラとか
結果として、主人公がある結末にたどり着くだけの物語に、色んな人の思惑やら個別ルートやらが継ぎ足され、最初に設定されたプロットから逸脱していく
そんな人間という複雑なものを複雑なまま描写しようとすれば、作品も複雑になるし、論理的な痛快さは出せなくなっていく
だからこそサクラノ刻に感じたごちゃごちゃ感というのは、きっとそういうことなんだろう
サクラノシリーズに関して、作品のテーマ的にそんな複雑さが生まれるのは必然なので、私が感じた完成度の差のようなものは、作品のテーマの難しさが原因だったということで、いったんの回答とします
さいごに
つらつらと長々と書いてきましたが、結局のところ、人というのは一筋縄じゃいかないということですね
そしてそれはきっと、物語の世界だけを生きていては本質的に腹落ちさせられない複雑さなんだろうなと思います。
それではまたどこかで