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気持ちによりそう、5年目の命日。
毎年、命日が来ると、死に別れたその子のことを思い出す。5年たった今年になって、ようやく、たのしくうれしいことを思い出せるようになった。
心が凍りついていたからか、はじめのうちは自分で思うよりも、ずっと冷静だった。自分は冷血漢なのではないか。周りから励ましの言葉をもらっても、何も感じなかった。自分を責める気持ちも、なんにも。何も感じなかった。
ぽかんとした、不思議な静けさ。色がついていない灰色の景色。
半年以上たって、季節が春を迎えたころ、ようやく怒りが出てきた。なぜ、その子がなくならなければならなかったのか、悔しく腹立たしい気持ちになった。もっと私にできることがあったのではないか、と自分を責める気持ちもわいてきた。けれど、まだ悲しさもさびしさも、そこになかった。
1年がたち、2年目の頃。ぽつんと寂しさがにじみだしてきた。
どこにいるんだろう。どこにいけば会えるのだろう。
誰か、あの子を覚えていてくれる人はいるのか。
何か、今の私にもできることはないのか。
がつんと。突然かなしみがあふれてきた。2年以上も平気な顔をしてきた癖に、今更かなしんだりしてみっともない、と自分を責める気持ちも出てきた。
悲しみが、かなしみやさびしさとして心にあふれてくるには、ゆっくりとした時間がかかる。「受け止めるのに、それくらいかかったんだ。それくらい悲しかったんだ」と声をかけてもらって、ようやく、あの子を思いながら泣くことができた。
そして、もう5年。やっと5年。悲しさに隠されていた、喜びの記憶が戻ってきた。思い出して涙ぐむときもあるけれど、でももう私は大丈夫。
今はもう会えなくなったけれど、一緒に居て嬉しかったことやたのしかったことは私が覚えている。一緒に居られた時間は短かったけれど、それでも、たくさんのことを覚えている。ふとしたときに、一緒にいたときのやさしい気持ちを思い出す。
もしかしたら、今もあの子と同じ景色をみているかもしれない。私が気が付かないうちに、どこかで一緒にすごしているかもしれない。
また、会えるときを楽しみにしながら。これからの命日を迎えることになりそうだ。
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きみがいない。
大切に思う人をなくしてからの私のきもち、5年分が、ぎゅっととじこめられてあるように思えた動画だった。