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はじまりの朝にむかって

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空

新古今和歌集にもある藤原定家さんのうた。今朝、ぱくっと目をあけて真っ先に思い出す。

定家さんのこの和歌は、恋の終わりをうたったものなのに、わたしが卒業に感じている気持ちにすっと重なる。

わたし、この半年の間。
授業や先生やなかまたちに「恋」をしていたのか。

近くによりそっていきたい。同じ景色を見たい。
できれば、これから先も一緒に歩いてみたい。

けれど、それはかなわないんだね。

授業のある間は、あたりまえのように毎月、顔をあわせてきたけれど、もう来月からは会えない。ひとりずつ、それぞれに会うことはできても、全体で授業を受けた時のようには会えない。

自分で深く知っていたわけではなかったけれど、思っていた以上にみなのことが好きだった、みたい。

そうはいっても、何か行動に移すとき。人はひとりだ。

ひとりで歩いているその姿を、後ろのずっとむこうで応援してくれる人があるとしても、それでも現実のなかはひとり。

応援してくれている心のかさなりを抱きしめながら、ひとりで行動を進める。

ひとりで行動している人と人とが、何かのきっかけでその道を交わらせるときはある。それでも、人がひとりなのは変わりない。

ひとりで行動できるのは、応援されたり関わってきたりする他の人からの心のかさなりをあったかに覚えていられるから。

けれど、心のかさなりをあったかに感じられる分、ひとり歩いていく身体感覚のつめたさやさびしさが、くっきりと浮かび上がる。

「恋」したみたいに、さびしくて。きゅうっとなってる卒業は。
心かさなる、あったかな仲間や先生たちに会えたからなんだね。
この時間、大事だな。この感覚、覚えておきたいな。

そんなこと思いながら、今日、最後の授業に出てくる。


***

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空
(はるのよの ゆめのうきはし とだえにして みねにわかるる よこくものそら)

「新古今和歌集」(巻第一 春歌上 38)におさめられた、藤原定家(ふじわらのていか、さだいえ)による和歌。

春のみじかく儚い夜の夢の中にいたけれど、うつつと夢をつないでいた橋が消えてしまった。夢から覚めてしまった。空を見たら、山の峰のところにある雲が、すっと山から離れていく。夜も明けてきているんだな。
とでもいった意味のうた。

それなのに、これが恋の歌によめるのは、そのなかに別の和歌が隠されているから(「本歌取り」といわれる手法による)。

風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か

ひとつめは、古今和歌集(巻12・恋歌2)にある壬生忠岑(みぶのただみね)の歌。恋人のこころ変わりを悲しむ歌。

もうひとつは、百人一首の中に入れられてある周防内侍(すおうのないし)の歌。

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ

ほんのちょっとしか会えてないのに、うわさばかり出たのでは悔しいわ。ちゃんと、あなたとおつきあいしたわけではないのですもの。
とでもいう意味。はかない恋の歌。

***

はかない恋だったけれど、景色はとってもきれい。ひろびろとして、これから朝が始まり今日が始まる。

そうおもうと、春の夜の夢があけて、空を見あげるここちを持つ、今朝は「はじまりの朝」。

わたしが「恋」をしてきた、授業や先生やなかまたち。
けれど、その恋もはかなく、今日で終わる。そして「はじまりの朝」がくる。

はじまりの朝にむかって、顔をあげるために。
今日の卒業やかなしさは、存分に味わってこよう。

近くによりそっていきたい。同じ景色を見たい。
これからを一緒に歩いてみたい。……と。
半年の間に、自分のなかで知らずあっためてあった気持ちを自覚して、できるかぎりみなに「大好きだよ」と伝えてこよう。

夜には卒業、修了式もある。
わたしのまぶたは腫れあがってしまう予定。

ハンカチじゃ、とても足りない。

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