諦めるのを、やめる。育ちはじめる。
季節ごとに、見えてくる風景が変わる。風のにおいも空気の柔らかさも変わってくる。
日常の中で、ふと。その変化を感じることが好きだ。
その変化を「ねえ、聞いて聞いて」っていうみたいに、誰かに伝えたくて書いていたころがあった。……いつの間にか、過去形になっていた。
それは、友人が季節の変わり目について、もの書くようになったから。
友人が書く景色は、とってもはかなげで美しい。わたしもその景色を同じように見たかったなと思わせてくれる。それと同時に、自分の内側にぷくっと浮かんだ変化の芽を押しつぶしていく。
わたしは、わたしが見ているものを知って欲しい。
それなのに、わたしの見ているものは友人の目にすりつぶされていくよな感覚。
だから、いつのまにか負けたくなくて、書くようになって。書いても書いても、書けなくなって。そして、いつの間にか書かなくなった。
そして、ただ。すごいなと思うのだ。
「書く」をしごとにしている人は、たぶん、書けない時にも書いているんだ。その時に書ける、最高のものを目指して書き続けている。「書く」をしごとにしたい友人も、きっと、同じように書き続けているのだろう。
それなのに、わたしは。書くことを止めてしまう。
いや、正しくは「書いているけれど、公開/投稿のボタンを押せなくなっている」。
だって、あの友人が書いていた景色の方がうんと美しいから。わたしなんて、とてもとても……
気がつけば、いつの間にか。季節や暦の移り変わりに感じていた、美しい景色のことを書かなくなってしまった。
「負けたな」
友人に負けたなと思う以上に、自分のなかにある「理想の自分」に負けた感覚。
勝ち負けなんかじゃないと知っているはずなのに、やっても、やっても足りない。理想の自分に近づけた気がしない。どんどん、理想が逃げていく。書いても、書いても。景色が言葉の隙間からこぼれていく。
*
この、こぼれていく感覚は、人づきあいと同じ。
はじめましてのときは、まだ、それなりに居場所が在る。場の中での過ごし方もわかっている(つもり)。
それなのに、周りで仲良しさんができ始めて、それぞれに距離が近づき始まると、すっと、わたしのまわりは空白になる。わたしも距離を近づけたくて、あれこれと動いてみるのだけれど、どんどんと空回りして、結局はぽつんと残っていく。
ぽつん。
取り残されて、はじきものになったような感覚が嫌で、わたしは一人で大丈夫ですよというふりをする。「あなたたちとは違いますから(仲間に入れなくて、仕方がないですね)」と諦めていく。
そうか。
今、書かないのも。諦めているのか。
書くことを諦めようとして、書かない。投稿しない、公開しない。できないことにしている。
そろそろ、諦めるのやめようか。自分から動くと決めたのだから。
じゃあ、わたしは何を書こう?
……考えてもわからないから、いつもどおり。そのとき、考えたこと、思ったこと。わたしは「こんな風だよ」と書くしかないんだな。それが、わたし。仕方がない。
そう思ったら、ふっと。空が明るくなった。
風に少し、夏のにおい。いつのまにか「穀雨」の中にいた。暦は春の終わりに来ている。
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「わたしなんて」と自分自身が思えば思うほど、わたしの書いたものを読んでくれる人たちのことをありがたいと思う。じんわりと「大好き」が染み出してくる感覚。
読んでくださったこと。ほんとうに、ありがとうございます。読みに来てくださって、ありがとうございました。
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タイトル上の写真は、Syuheiinoueさんの作品。Suheiinoueさんは「私にできること」としてサイト「I'm here」を紹介されていた。スライドショーで現れる写真に音楽が載せられた作品たちが置かれてある。
外に出られなくても、外の景色を。美しく切り取って。
こころ、ちくっと踊る感じの音楽に海の景色な「SHORELINE」、透明で空白ある感じがきゅっとなる「FRAGMENTS」が、いちばん好き。(いちばんと言いながら、ふたつになってしまった……)
作品をありがとうございました。