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2022/9/27(火)>「こうでない別の社会のありかた」
いつもは自作のヘッダを使うのですが本日は「みんなのフォトギャラリー」をお借りして。
今朝のつぶやきをまとめさせてください。
きっかけはこのツイートでした。それをふまえて。
連投で呟いているうちに比較的穏当な表現でうまく自分の今の見解を文章に落とし込むことができたので、とても長くなりますがここに転記し、備忘録とします。
これスルーしようと思ったんだけど、やっぱり呟きたい>RT
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
前者も後者も正解だと思うんだ。
ただし対象者が違う。
ある一定以上の知性を持つ人は前者に取り組まなきゃだめだけど、そうでもない人はむしろ後者の、地に足ついた生き方を手放さないことだと思う。
人の生まれ持った知能には、申し訳ないけど限界があると思う。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
私も自分の天井はこのあたりかなって思うし、年を取ることでその天井が下がってきてるのも残念ながら感じる。
あまり天井が高くない人にまで「自分の頭で考えろ」とか「社会を良くすることを考えろ」と要求したらいったいどういうことになるか、このネット社会でかなり明らかにされたと思うんですよね。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
一方、そこそこ天井が高そうな人なのに、まさかの「自分さえよければいい」「このルール下で一番得する生き方」だけを模索して一人勝ちしようとしてる惨状、倫理の崩壊。これもネット社会で見えてきた気がするんです。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
ほとんどの人はベースは個人主義でいいと思うし、今あるルールの中で生存することを考えていくほうが絶対にいいと思うんだけど、それこそ大学進学できるくらいの頭のある人は個人主義を捨て、自分の幸せよりも社会全体の幸せを設計できる知性にチェンジしなきゃいけなかったのかもと。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
今、逆になっちゃってるように見えるんだ。国民には国をもっと思えと言いながら、上級は自分を大事にすることしか考えてない。それ絶対違う。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
そしていわゆる権威国家ってやつも、同じ構造に見えるなあ。
ウクライナの凄さはそこ。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
大統領が逃げなかった。
もちろん本当に死んでもらっちゃ困るけど、最悪自分の命をかけるというスタンスを見せてる、と私には映る。
実は日本も終戦時そうだった。昭和天皇がご自身お一人にすべての責任を負わせようとした。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
命をかけた覚悟が国家元首にあったからその後の日本が存続できたし発展もできた。
まあ当時の日本は一方で国民の命を使ってたんだから、どちらの側面もあったんだよな。そして残念ながら今、良いほうの精神はすたれ、悪いほうだけ残っちゃってこうなってる気はする。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
国民が政治に参加しないのが悪いんじゃなく、国民の声を広く深く拾えない政治家たちが器じゃないのが問題なのであって、政治家たちが己をもっとみがけよと。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
ここ数年で本当はそう考えるべきなんじゃないのと思うようになったんだよね。
親が子どもの幸せを目指すとき、子どもにまで親と同じ決定権を与えてやる必要はないのと同じ。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
子どもの声を聞き、日々の暮らしを観察し、彼らだけでは実現できない安全と成長を後押しする判断と行動をすればいいだけ。
子どもたちが幸せかどうかは、つまり、自分たちに親と同じ決定権が与えられているかどうかじゃなく、ただ単にその当たり前ができる親のもとに生まれてこれたか、毒親にあたってしまったか、実はその一点のみではなかろうかと。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
毒親は総じて権威主義的なものだし、まともな親は、そうはいっても子どもの判断を優先するものだし子どもの意見を中心に生活を組み立ててくれるもの。つまり民主的なありかたじたいが正解なのではなく、まともな親ならほうっておいても民主的になるんだよね。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
だってよく考えたらゴルビーや鄧小平が今のような事態を引き起こすだろうかってことさ。制度じゃない。ぜんぶ人なんだよ。運悪くへんなのがトップに立ったらどんな制度であろうとも詰む。それが国なんじゃないの。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
そして民主的な世の中というやつは、へんなやつを引きずり下ろすことにはあんがい無力なくせに、頑張ってる人をつぶすのには最凶の力を発揮するようにできてるという困った性質を持ってた。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
これが十数年来、一国民である以上ちゃんと政治に向き合わなきゃいけないと考えをあらため、実際に少しは動いたり見聞きしたりした結果の、私なりの結論です。
— たまや (@tamaya75) September 27, 2022
民主化それ自体が正しいのではなくまともな政治指導者たちのもとでは民主的になるのが当然であるということ(国民の現状や要望に耳を傾けない限り善政は不可能だから)
つまり国民のための政治が実現するために国民の全員参加は必須ではなく、人間的にも知的にも優れた政治家が彼らの声を適切に汲みあげることができるのであれば十分に可能だということ
むしろ民衆の判断力には限界があるから、適切な政治家の足を引っ張る一方で不適切な政治家を支持し喝采しがち
そして。
もし仮に民主主義が成功をおさめているように見えるとするなら、このどうしようもない現行下、民衆がいかに愚かであり続けようとも正常に国家が運営、維持されるべく、水面下で動いている人たちの存在が大量に、かつ散発的にあるからではないか、という仮説。
それはディープステートや闇の組織みたいな話ではなく、一生懸命一生懸命もとに戻そう、バランスよく戻そうというホメオスタシスが働いているという、そういう役割を果たしている人たちが一部意図的に、そして一部は自発的に存在しているんじゃないかという、そういう意味です。
安倍さんの国葬の日に。
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