2022/9/24(土)私たちはいつだって「やらなくていい言い訳」を探してる
このタイトルで相撲の話です。
だけど内容は一般的なこと。
大相撲には昔から「立ち合いの変化で勝負をつけてしまう」いわゆる注文相撲というものがあります。当然ですがルール上何の問題もなく認められている勝ち方。
とはいえ、見ている側としては攻防の力比べも知恵比べも一切楽しませてもらえない、一瞬で勝負がついてしまう、それこそ1取組分まるまる損したなあともいえるこの勝ち方には以前から賛否両論あって、これについて議論をいくら重ねても水掛け論になるのは仕方のないこと。
見ている側が納得するかしないか。究極にはそれだけ。その基準が人によって違う以上、議論のしようがないのです。
前置きが長くなりました。12日目にまさしくその注文相撲があったんです。
一人は優勝争いをしている平幕、もう一人はあまり成績がかんばしくない、とはいえこの一番に勝ち越しをかけている程度には成績をあげている大関。
注文相撲を見事成功させたのは大関でした。平幕は頭からバッタリ。もちろん完全に相手を信頼しきって突進していった平幕もどうよと言われてしまえばその通り。そしてくだんの大関は首に爆弾を抱えており、同じ勢いでぶつかることなどとてもじゃないけどできない。
だから正直、私はね、仕方のない相撲だと思いました。つまんない一番に終わっちゃったなあと落胆しつつ、でもだってしょうがないじゃないか。
実際、しょうがないんです。
でも翌日13日目の相撲を見て、私は考えを改めました。
「これ、そういうことじゃないわ」と。
こういうことが続けば、大相撲全体がくさるな、と。
翌日13日目の主要な取組
・優勝争いのかかった一番は注文相撲とまではいかないまでも低く当たりすぎた相手に一瞬ついていけなかった力士がたまらず体を開いて突き落とし(相手がすぐ落ちず粘ったため多少見ごたえのある取組にはなってます)。
・もう一番、こちらも優勝争いのかかった一番は、前日の例の取組で立ち合いかわされた力士が、やはり低く飛び出してきた相手を冷静にさばいて、と言ってしまえば聞こえはいいけれど、体を開いて突き落とし。
・結びの一番、前日の例の大関が今度は自分が突進していき、好調の関脇に華麗にかわされ土俵に倒れこみ。
押し相撲のお相撲さんが多すぎるということも原因の一つだと思います。 また、どの取組もそうだと思うのですけれど、最初から変化してやれというのではなく、相手の出方を見てとっさに変化してしまった、体が勝手に動いてしまった、というのも実情だと見ていて思います。
相手が何も見ず全力で突進してくるのを、負けるだけでなく下手すりゃケガするリスクすらあるってのに受け止めてやる義務など相手の力士にはないわけですから。
もっと言ってしまえば、今の大相撲がいかに八百長を排除し、ガチ相撲で勝つことを最優先しているか、正直さの表れでもあると私は思っています。八百長ってのは悪い面ばかり指摘されますが、興行全体の盛り上がりを考えたとき時には欠かせない必要悪の不正でもあるのですから。八百長を排除しガチの一対一の勝負を実現させれば、そりゃこうなります。
そういう様々な現実問題を踏まえた上で、それでもなお思うのは。
大事な一戦がてんこもりの面白そうな一日だったのに、まあものの見事にどれもこれもつまんない相撲ばっかり。
力比べも知恵比べも柔よく剛を制すも一切あったもんじゃない。
見せられたのはただの防衛反応。
12日目の話に戻ります。
大関ともあろうものが変化で勝つとは。
それ自体の是非を問うのはたいへん難しいところです。多くのファンが大関ご自身の抱える身体状況を理解しているので。
だけど大相撲全体の今後の流れとして見た時、番付上位の者が変化に限らず、実力以外の機転だの小細工だので格下に勝つという相撲を繰り返すことは。
「ああ、自分がつらい時にはこういう勝ち方をしてもいいんだな」
という言い訳を、これまではそれでも多少は後ろめたく感じていたものを、みんなだって堂々と使っていいよ、正当化していいよ、だって横綱がやってるんだから、大関がやってるんだから、とお墨付きを与えることなんだと。
「注文相撲されるような自分勝手な相撲を取るほうが悪い」
これはあくまでも、注文相撲を食らったほうが次は食らわないよう自らの相撲を戒め成長させるための大事な教訓であって、やったほうをかばうために使っていい言葉じゃないんです。
一人一人がなにかを自覚して受け取ったわけじゃないと思います。
だけど確実になんらかのタガがゆるんだ。
それが13日目のあの結果だったのではないかと私は感じたわけです。
自制心や誇りは秩序の上から下に降りてくる。
上の人間が言い訳を自らに許し自制を手放した時、下の人間は安心して、無理して自らに課していた自制をまとうのをやめ、欲のままに動くようになる。
自制によって保たれていた誇りもまた同時に失われ、むきだしの防衛本能だけが跋扈する状態になる。
私たちはいつだって「やらなくていい」言い訳を探しているんです。
無理しなくていいよ、かっこつけなくていいよ、痛かったらやめていいよ、怖かったら逃げていいよ。
その一つ一つから逃げない心、それを高め維持するのはほんとうにつらいこと。
心身がどれほど痛くて苦しいことか。
だからそれを耐え続けられる超人たちのことを私たちは尊敬するし、必死でお手本にするのだけれど、彼らが「そんな強がり意味がない。私たちだってあなたたちと同じ人間なんだ」とやめてしまったらどうなるか。
横綱や大関にはその責任があるというその一点において、やはりあの12日目の相撲はよくなかった。私は今はそう思います。
そして秩序とは上の者が威張り倒すためのものでは実はなく。
私たち下の者に自制心と誇りを保ち続けさせるための大事な仕組みなのだと。
いわば秩序の上にいる人ほど規範となって自らを戒め、鍛え、場合によっては傷つけなければならず、下の人たちのためのある種の犠牲者とならなければならないという逆転現象が本来はあるのだ、そのように思うようになりました。
それは同じ生身の人間として本当に気の毒なことなのだけれど。