2021/7/20-21(水)これはある問題の構造と同じかもしれない
昨日の続き。
白鵬に対して。
これまでの相撲人生を経て白鵬が己の中に積み上げた独自の相撲道が間違いなくあるはずで、それは一種奇怪なアレンジをほどこされた不知火型の土俵入りにも表現されてしまっているように、確かに一本筋は通っているもののどこかが根本的に間違っている相撲道なのではないかという嫌な予感があります。
白鵬の相撲道に照らしてみればこの15日間、何ら間違っていないどころか勝ちに徹するという意味では最高の15日間だったことになります。
そしてこの「とにかく勝つことが横綱の責務である」「勝つためには立ち合いの駆け引きや心理戦も含め今の自分にできる限りのことをむしろ積極的に仕掛けていくべきである」という勝ちへの美学は、どうやら令和を生きる日本人の一部の人たちにはおあつらえのようにぴったりはまる美学のようです。
白鵬本人の意図と関係なく、時代が求めているもの、令和のポピュリズムと一致してしまったのだと私は推測します。
ただしこれは一見正論のように見えてとんでもなく危険な美学でもあるなあと私は見ています。どのような美学にも表と裏がありますけれど、とりわけこの美学の裏はあまり性質のよろしいものではなさそうです。
勝ち負けには暴力がつきものです。暴力は必ず、程度の差はあれ痛みと憎しみを残します。とはいえ勝つときもあれば負けるときもある、だからこそ痛みも憎しみもお互い様、次第に相殺されていくのでしょう。
ということは常に勝つ可能性の高い側が暴力性を最小限に制御できなければ、ただ一方的に痛みと憎しみの屍を積み重ねていくことになるということです。
「やりかえせばいいではないか」強い人が相手ならそれでもいいでしょう。だけどそれは弱者の全否定でもあります。
面白いからいいではないか、勝ちたいと思うことが大事、負けるほうが悪い。強くなればいいだけのこと。
それ……いじめの正当化と根っこで一致しませんか。