2022/9/30(金)サイレントマジョリティとは「私」以外である
キンモクセイの香りがどこからかほのかにただよっています。
どこで咲いているんだろう。
ここ数日の騒ぎを見ていてようやく目が覚めたこと。
遅すぎた。
右も左もみながみな、自分たちと同じ考えを持っている人たちのことをサイレントマジョリティだと勘違いしてやいませんかね。
国葬の献花に訪れた人たちの数を見て「本当の国民の声はこれだ。社会は分断などしていない」と言う人たち。そしてそれに対して「動員じゃないのか」「一般人は平日に献花になど行けない」と反論している人たち。自分たちの一派こそ平日に下品なデモしているというのにそこは棚上げできるのが自己紹介すぎて実に素晴らしい。
献花に訪れた人の数>反対デモの人の数、のようですので、サンプル調査の結果やはり安倍政権が支持されてきたのは当然だよなという感想を持ちましたけれども。
ただあれですよ、あれ。2:7:1のうち2と1が争って2が数で勝ったからって、7の人たちの話はできないということです。
2の人たちが7のうち2を、1の人たちが7のうち1をさらに仲間につけて選挙を戦えばまあ4:4:2で2の陣営の勝利、もし仮に1の人たちが7のうち2を仲間にすることに成功できても4:3:3、これでも2の人たちの勝利だな。
そんな感じじゃないですか実際の投票率考えても。
なびかない人たちが必ずいますから。分断させたくてもさせられない人たち。争いごとは嫌いだよ、争いになるくらいなら無関心を貫く人たち。
まあそれはともかく。
右も左も、何を根拠に議論という名の一方的な主張をしているか、よくよく見てみるといいです。
「我こそがサイレントマジョリティの代表者なり」
どの人も信じて疑ってないですから。私の考え=民意だと勘違いしている。お前たちイタコか。
おめでたいなあ。私のようなひねくれものにはその単純さが実にうらやましい。
私たちは常に自制しなければなりません。
サイレントマジョリティとはいつだって私以外の人たちであると。
私が何かを感じ、何かを強く思う時、それはあくまでも私がそう思ったという個人的な感覚でしかなく、他の人たちの声を代弁することなどありえないのだということ。
良い年した大人たちよ、自と他の区別をまずつけよと。
ほんとうに分断があったかもしれない。なかったかもしれない。
分断以前にどうでもいいと思ってた人のほうが大多数だったかもしれない。
私たちがサイレントマジョリティの声を知ることは一生無理です。
だからこそサイレントなんだし。
「私」は間違いなくサイレントマジョリティの一員ではない。
語る言葉を持ち始めた時点であなたは間違いなくマイノリティなのだから。
右の声も左の声も空虚に聞こえるのは、あなたがたが宙に浮いた存在だからだよ。
私の声もね。
本当のサイレントマジョリティというものは善良かつ邪悪、少しのことで右にも左にも流される、実に不気味なものであるように感じます。
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もう一つ、最後にこれだけは言わせて。
国葬反対派の人たちが今回国葬という形式をとったことに反対するのは別に構わなかった。私もどうするのが適切だったか、正直わかりません。
だけど国葬そのものを潰そうとしてた人たち、当日になってもあえて近くで騒音を立てる人たち、亡くなられた方に冒涜を加えていた人たちがいましたよね。
あの人たちを非難すべき責任を負っているのは、他でもない、反対派の人たちなんですよ。あんなものは許しちゃならない。理念の違いとかじゃなく、いち人間として、ああいうことは絶対に許しちゃならん。
反対派のあなたたちこそがそういう声をあげなきゃいけないんですよ。
私が知らないだけでそういう声がちゃんとあったと強く信じたいところです。