2021/7/27-28(水)なんにでも「ゼロ」が叶えばいいけれど
続き。
例の問題とは別にして、
「いじめというものはなくせるのか」「なにがいじめなのか」「悪いことだとわかっているはずのいじめをなぜやるのか」
いま一度冷静に、どこかで場を設け真剣に議論しなければならないことは確かです。
ただどうしてもこれは感情論になります。被害者としての過去の傷を見て見ぬふりするなと主張する人たちと、たかが若気の至りに加害者としてのレッテル張りをされてたまるかという人たちと、どこまで行っても平行線になるんだろうなと。
今回の件でいくつも目にした、過去の心の大きな傷を揺さぶられ、ご自身が今も抱える苦しい感情の数々。いじめの後遺症、決して一過性のもので終わらない、一生ものの傷であるという深刻さを浮き彫りにしたこれらの発言には重たい意味があります。
だけど同時にそれだけでは議論には決してなりえないということもわかってほしいのです。
「こんなことくらいで俺たちは加害者として一生罪を背負わなければならないのか」と抵抗する人たちの多くは反省などしてくれず、むしろ強者特有の過剰な防衛本能を発動しさらに殴りにかかってくるでしょう。
身を守るという側面からも感情論レベルに落とし込まぬよう、論点を絞り込み、ひとつひとつ実情と本音、具体的な解決策を提案していくしかないのではと感じます。
間違いなく時間がかかるし、不都合な事実や見たくもない本音、解決困難な社会的課題とも向き合わなければならない予感があります。
だから一足飛びに「いじめゼロ」「いじめ撲滅」などと掲げ、根本的な解決からは逃げ出す人が続出するのでしょう。
でもそんな簡単なことで解決できるならもうとっくの昔にいじめやいじめと称する単なる犯罪行為の数々などという野蛮で腐った行為、なくなってなきゃおかしいんです。
いじめに限らずゼロ目標を掲げたところでその先にあるものは、あるものを「ない」といってごまかすだけの隠蔽社会でしかないというのに。