頼まれてもないのに。その4(体育が絶望的に苦手だった話)
子どもにとって「運動ができない」というのは、実は「勉強ができない」よりも切実な悩みなのではないかと思う。
なぜかというと勉強ができなくても友達の足はひっぱらないが、運動ができないと友達の足をひっぱることがあるからだ。
たとえば、ドッジボール。開始早々ぶつけられ外野に追いやられる。気の利いた子なんかは、外野と内野で挟み撃ち、などという高度な援護射撃を仕掛けてはゲーム展開に花を添えるのだけれど、こちとら内野からのボールすらダイレクトにキャッチできないんだから始末に負えない(そんなもん取れてりゃ開始早々こんなとこにいない)。ころころ転がっていくボールを外野の外までどんくさく追いかけていってはゲームをいちいち中断させる。子どもながらにあれは気まずいものだった。
たとえば、ポートボール(註:バスケットボールのルールとほぼ同じなんだけど、人がゴールの代わりをやるやつ。私の子どもの頃はよく授業でやってた)。ドリブルがぎこちないのですぐ相手に奪われる。味方の都合よいところに位置取ることができない。そもそも鋭くパスされたボールが怖くて取れないので絶好の場所にいたとしても誰も私にパスしない。ボールが上手に取れないから当然ゴール担当にもなれない。
たとえば、リレー。足が遅いので(以下略)。
このように少なくとも私にとっては、子ども時代の「運動ができない」は、集団競技において常に友達の足を引っ張り続けてきたという申し訳なさの記憶の積み重ねであり、運動ができないという劣等感よりも、周囲への申し訳なさ、それこそ、私なんかここにいないほうがいいんじゃないのかな、とセットにされるものだった。
幸いにも私は環境に恵まれていたようで、それが原因で嫌われるとかいじめられるとかいったようなことはなかった。でも決して「積極的に」声をかけられ遊びに誘われることはなかった。そこにいることを否定されないが「誰からも特に必要とされない」むなしさ、それが「運動ができない」ということが持つ一つの側面なのだと否応なしに知らされた。
「運動ができない」ことはまた、頑張ってもどうにもならない限界を突きつけられる苦い経験でもあった。運動ができる人は「できない」から「できる」への瞬間を体感し喜びにかえることができるのだと思うのだが、「できない」人にはそれが来ない。できないものはできないのである。いつまでもボールは怖くて取れないし、いつまでたっても鈍足は鈍足のままなのである。だから私は「努力すればなんとかなる」なんて経験的に思えないし、軽々しく口にできるような人たちのことをいつだって苦々しい思いで眺めている。
ただ。今の私は運動が嫌いかといえば、むしろ好きなほうだと思う。
「運動ができない」ことには変わりはない。でも、この場合の「運動ができない」とは、人と比べて運動神経が悪い、であり、自分自身が気持ちよく体を動かすだけならば、何の問題もなくできるのである。
たとえば、ダンス系。私は音感もリズム感もたぶん良い。だからエアロビクスのスタジオで音楽に合わせて体をリズムよくメリハリをつけて動かすことができるし、その瞬間がとても大好きだ。心地よい。太極拳のような連綿としたゆるやかな動きもとても好きだ(どちらも今はやってないけれど)。
たとえば、ウォーキング。私は短距離系、瞬発力系は大の苦手だが、持久力系だけはどうも人並みにできるらしい(この事実を中学生の頃やった1500m走で知った)。いくらでも歩ける。山登りも好きだ。体力は、ある。ちゃんと、ある。自分の足でどこまでも遠く行けるという経験はとても楽しく、そしてその達成感は強く揺るぎのない自信となる。
「立ち位置」さえ変えれば、あんなに苦手でつらい思いしかなかった「運動」がこんなに生き生きと軽やかなものになる。コミュニケーションツールとしてはあんなに私を苦しめ申し訳なさにさいなんだ「運動」が、他の誰かのためではない、私を楽しませるためだけのレクリエーションツールとして生まれ変わってくれた。
「運動ができない」おかげで私は「人の役に立てない虚しさ」「がんばってもがんばってもできない悲しみ」を経験し、「努力してもどうにもならないことがある」という現実を知った。
これらのものはやはり経験によってしか得られないもので、いくら「こういう感情がある」と活字や語りで聞かされてもしょせん他人事であり、血肉としては経験できない痛みだと思う。そういう意味では「運動ができない」ことが子どもの頃に与えた痛みは、私にとって今、ものすごく大事な痛みになっていると思う。
今の私は運動が好きだけれど、できないことができるようになったわけではない。取り組み方が変わっただけ。つまり運動音痴そのものについては何も解決していないけれども、運動から「人とのコミュニケーション」要素を排除した今、運動による楽しみは私だけのものとなった。
今の時代、なにかと「できないことをなくす」「できないことを解決する」というほうにかじ取りをしがちかな、という印象を持っていて、なんだか息苦しいなと思うことがある。これって「がんばったら必ずできるようになる」が前提だから、がんばっても解決できなかった時のことを全くと言っていいほど想定していないし、解決できなかった時にはそれこそ「努力不足」「自己責任」にされてしまう。しんどくない?
「できないこと」からしか学べないことをしっかり血肉として学び、「できないこと」を前提に暮らしをたてていくこと。
自分の過去を振り返っても周りを見ていても「できないこと」ってのは自分自身への不利益ではなく他人のご迷惑になってることのほうが多いと思っている。だから他人の都合は一端保留して、つまり「できない」を未解決のまま自分のための楽しみを探していくほうが、これからの時代らしいのかもしれない、と思ったりする。
それは自分自身のためだけでなく、そういうふうに己が意識して生きていかないと、「できないひとたち」に対し、いつまでたっても内心では見下した目線でしか向き合えないような気がしてね……
武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。