2021/7/28-29(木)ドッヂボール
もう少し煮詰めてみます。このテーマしんどい。逃げたい。
いじめ加害者がいじめ問題の解決に消極的だったりむしろ抵抗的なのは、もうそれ自体が答えを表しているのと同じことで。
いじめは被害者側にとっては地獄であり何が何でも解決しなければならない問題だけれど、加害者側にとってはむしろいじめることによる何らかの大きな利点があり、彼らは決してそれを手放したくない。
そして残念ながら往々にして加害者側の人間が社会では成功をおさめがちであり、被害者よりも加害者の立場や心理に共感する人たちが共同体を構成しがちなのかもしれない。
これこそがいじめが一切なくなることのない原因なのではないかと。
せめて私が思うのは、刑法において犯罪名がつくものだけは一切いじめと呼ぶなということと、知力腕力的に絶対抵抗できない人をいじめる奴だけは許すな、この2点だけはなんとかしてほしいと思います。
ふとドッヂボールのことを思い出しました。あれ自体はきっと楽しい競技なのでしょう。同じくらいの運動神経、同じくらいの攻撃性を有する人たちだけで行われる分には。
小学校低学年の時にやらされたドッヂボールは苦痛以外の何物でもありませんでした。いつも私は最初のほうに狙われ、ゲームから外されました。ボールをぶつけられるという物理的な理不尽もありますけれど、何より集団内において自分の足手まとい感をゲームのたびに痛感させられるのがつらかったです。
生きるってまさしくドッヂボール。だったらせめてあなたたちのその攻撃性は同じレベルの人たち同士で互いに発散させていてほしい。私は違うゲームのルールで生きたい。もしくは同じ力加減の人たちとこのゲームをしたい。
気づいてるよ、攻撃性とは最高の娯楽。己の繰り出した攻撃が見事成功したときのたまらない快感。
今は弱い人たちだって一度でもその成功体験を経験したらハマって抜けられなくなってしまうくらいに。