2021/7/23-24(土)人は言い訳に使える部分しか真似てくれない
昨日の続き。
私たち相撲ファンのほとんどが今もなお白鵬を評価するのはあの圧倒的な全盛期を知っているからです。モンゴルからやってきた15歳の小柄な少年、入門当初の2ヶ月は体を大きくすることだけに必死に努め、16歳で初土俵、19歳で新入幕、21歳で初優勝、22歳で横綱に昇りつめ、7場所連続優勝や63連勝という大記録を次々達成していくのを目の当たりにしてきました。
当時は解説の親方衆がその稽古量の多さを口々にほめたたえていたものです。当時の圧倒的な強さと均整の取れた見事な体格が入門時から白鵬が常に人一倍の努力を重ねた結果であることは誰の目にも明らかでした。
そう、全盛期にどんな相撲を取っていたかを知っているからこそ、今の白鵬が、体力的にも衰え、体のあちこちに致命的なケガを抱えている中、それでも勝つことへの執念の炎を未だ絶やしていないという不屈の精神に、ただただ圧倒されているのです。
だけどおそらく後世の人が真似てくれるのは、白鵬の壮絶な努力や精神力、全盛期の圧倒的な相撲ではなく、この先まだしばらく続くであろう晩年の、工夫という名の勝つためにはなんでもありの相撲、そっちなんだろうなという嫌な予感しかしません。
舞の海の相撲がもっともそれを必要としない力士にこそ継承されてしまったように、白鵬の相撲もまた結果的にそうなるのだろうと悲観視しています。
目先のつらい努力や我慢から逃げる言い訳はごまんとあります。負けたくないというみっともない欲望を抑えきれないことへの言い訳もまた同様。そんな言い訳のバリエーションの一つとしてすでに舞の海の相撲が使われ、いずれ晩年の白鵬の相撲が使われるようになるのでしょう。
いや、すでにそれは始まっています。いつから相撲は立ち合いの駆け引きと先手必勝こそが最重要な競技になってしまったのか。呼吸を合わせるのが立ち合いではなかったのか。
楽なほうへ、都合のいいほうへと、流れがいっている気がします。