2021/7/24-26(月)文学的露悪アプローチの終焉
あれ?今日わりと涼しくない?と勘違いするくらいにはどうやら体が暑さに慣れてきてくれた模様。でも体感って当てにならないらしいですね。大丈夫だと油断して気づいたときには熱中症というのは珍しくないとも聞きます。引き続き気をつけましょう。
さきほどTwitterのタイムラインに流れてきたこの記事に目を通しました。
何が本当で何が誇張か、私にはわかりません。それでも「あんなものをなぜ当時公の雑誌に載せようと思った人たちがいたのか」「自らの過去の暗部をさらに掘り下げようとした小山田氏の当時の真意は何だったのか」、少し考えたほうがいいのだろうとこの記事を読んで思いました。
今の若い子は文学=娯楽という感覚のほうが強いかと思いますし、文学が娯楽を第一にしなくてどうするという気もしますけれど、なんといいますかね……明治以降の日本近代文学やそれらに影響を強く受けてきた人たちというのは、どこか露悪的というかアングラさを抱え込んでるというか、己自身(WeじゃなくてあくまでもI)の汚さ弱さみたいなものをどこまで追求できるかみたいな風潮が、一部にあったようにも思うんです。
己の醜悪さを掘り下げることによってこそ人間の本質が見えてくるのではないか。救いのなさこそ現実ならそれこそを紛れもない事実としてさらけ出してやろうという。善と悪の二元論ではない、愛憎も利害もグダグダにねじれこんだリアリズムとして。
続編の終わりに北尾氏はこう述べています。
TOKYO 2021。
これからの時代は偽善ですよ。
どういう意図でこの言葉を記しているか真意はわかりません。
ただ私も、北尾氏と違う意味でかもしれないけれど、そう思います。これからの時代は偽善である、と。そうでなければ危険で危険で仕方がありません。
問題の本質、真の打開策を探り当てたいと願っても自らを観察体にしてまでそれを掘り下げるなどという自殺行為はこのSNS時代、絶対にやるべきではない。そんな時代は終わりました。