2021/8/18-19(木)清潔志向はファシズムと仲が良い
昨日のnoteに関連して。
アフガンが日に日にえらいことになっています。イスラム原理主義という、己の信じる思想に対し清潔極まりない人たちがあの国においては最も武力があるもんだから自国民の力ではどうにもしようがありません。武力なしに抵抗したとて一方的に殺されちゃうだけだもの。
アフガンに限らず世界の独裁政府やファシズム思想って、もしかしたら思想的な清潔志向から始まっているのかなって。その清潔志向に人々が思わず賛同した結果、与えてはいけない力を過剰に与えてしまい、気づいた時には力の差がつきすぎて取り返しがつかなくなってしまったという感じ。
清潔な人たちの言ってることって語りだけ聞くと、まあそれはそれで筋が一本通っていたりはします。迷いがないですから。清潔とはそういうこと。「不潔な他人」の存在を全否定、全排除してしまえば、そりゃあ理路整然とした語りになりますよね。自分本位の語りだけ貫けばいいんですもん。
だけどいったんその語りの外に出てみれば。
「不潔な他人」、それは異教徒であったり異民族であったり、女性であったり性的少数者であったり、貧乏人であったり障害者であったり、様々でしょう、彼らの存在そのものを否定し、自由に考え行動する権利を奪い、唯一の絶対的な価値観のもと暴力で抑えつける。その残酷さ、冷たさ。
正しさの同意語は、冷たさなんだと思います。私たちにとって冷たさこそが本当の恐怖。
冷たさの塊が圧倒的な武力で支配する世の中なんて、ぞっとします。
清潔はとても魅力的。ぐだぐだな汚さは見苦しくて醜悪。だけど私たち一人一人が最終的に自由を奪われずに生きられるのは、果たしてどちらか。
究極の選択をする必要はないのですが、醜さを嫌う心、清潔さを求める心には常に誰かを排除する心がセットになっていることは自覚していないと、気づいたら手遅れな社会になっていた、なんてこともありそうで怖いと思う今日この頃です。