2021/7/30-31(土)知を装った情の共有
少し話を広げてみようかな。
SNS、とは言っても私はツイッターしかやっていませんが、ツイッターでの炎上案件を見るたび、ほんとここは議論の成立が困難な場だなあと思います。
ん?「ここは」?
議論が成立しないのってツイッターに限定されることかな。
違うよなあ。私たち一人一人のリアル社会でも昔っから議論なんてそんなに成立してないんだよなあ。テレビの討論番組だってそうだもん。国会中継ですら議論の場としてはとても見られたものじゃない。
みんな自分の意見を言いたい放題、人の話なんかろくずっぽ聞いちゃいません。
私らが「議論」と呼んでるものの多くは、議論じゃなくて説得だからね。
つまりそれって題材としては知的なものを一見取り扱ってはいるんだけれど、実際に行われていることってのは「私が正しいことを認めなさい」「私のやりたいようにやらせなさい」なのだから、そりゃどちらかの全面降伏以外の落としどころなど、どこにもないわけです。
なんだかんだ言ってもネット上で起きていることなど現実世界での延長でしかないと私は思っていまして、この手の、つまり知的なやりとりに見せかけた情の共有と拒絶など現実世界でも日常茶飯事だからこそ、誰もがフラットに参加できてしまうツイッターではより過激に炎上するというだけのことなのだろう、そう見ています。
議論は互いに互いの知を持ち寄らないとできないし、持ち寄った知と人から渡された知とが次なる新たな知を生み出すことこそが議論の醍醐味だと思っています。
でも情と情との衝突は。
新たな情ってそこから生まれるんでしょうか。情は共有するか拒絶するか、認めるか認めないか、申し訳ないのですがそのどちらかしかないと私は思っています。
そこに見せかけだけ知的な案件を持ち込むから、人々は混乱してしまう。
一見小難しい議論に見えるものも「私は不安だ、誰か私を安心させてほしい」人たち同士による争いにすぎないかもしれません。