2021/10/27-28(木)「あきらめる」はきっとポリコレ的NGワード
「あきらめる」についてもう少し書き足したいなと思ったこと。
思うに今の私らって絶対にあきらめたらあかんのですよ。少なくとも他人には絶対に口にしてはいけないワード。人から言ってもらえないのなら自分であきらめポイントを設定しなければならないんだけれど、それもできない。
そう、世界は「あきらめない」であふれてる。
あきらめるというのは、今まで進んできた道を捨て、違う道へと歩みを変えること。今までずっと正しいと思ってきた道を、素敵な未来が待っていると信じて疑わない理想のキラキラした道を、自らの手で捨てること。
分岐点から見える新たな道は汚らしくて細くてぐちゃぐちゃな道かもしれません。もしくは楽しい景色もなにもない、地味で変わりばえのしない道。だけどその先にあるものが何か、やはり行ってみないとわからないもの。
多くの人たちが歩いている一見王道に思われる道の先にあるものが何か。大勢が好んで選んでいるからといって最終的に正しい道かどうかそんなものは誰にもわからないというのに。一見美しく舗装されていても、たどり着く先はただの崖かもしれないのに。
もしくは王道の先に構えるいくつかの大きな障壁を乗り越えられるだけの装備と体力が自分自身にはなく、本来なら巻き道で行くのが力量的に望ましかったかもしれないというのに。
だけど今は「あきらめない」が主流。「あきらめて後悔するくらいならあきらめないで失敗するほうがまし」という風潮。政治的な正しさ。
だってそのほうが経済回るんですもん。誰かのあきらめないが他の誰かの懐をたっぷりと温めるんです。無理な「あきらめない」にはお金がかかる。あるいは人の知恵が要る。だけどその知恵が正しいか正しくないかを証明するのは難しく、あきらめなくても済むかもしれないという希望に対し、ただ延々と人々はお金を払い続ける。
そう、「あきらめない」はカネになる。経済を回す。
だから政治的に、正しい。